「先生、あなたは今さぞかし、わたしに自分のありのままを受け入れて欲しいでしょうね。『今までよく頑張ったね。おつかれさま。あなたは悪くないんですよ』と慰めてもらいたいんでしょう? そうやって労ってもらいたいでしょうね、みんな周りのせいにして。でも、ここでやるべきことは、それじゃあないんですよ。あなたがこれまで積み重ねてきた挫折の数々。あなたはそこにある共通点を見つけ出し、見つめ、内省を深めなければならないんです。そうでなければ、あなたはこれからも同じ挫折を繰り返すだけです。あなたはなにも変わらないでしょうね。ほんとうに変わりたいのであれば、あなたは自己の内面を見つめ、なぜ今こうなっているのか、自らの思考の癖について、考えを深めていかなければならないんですよ。それができないというのであれば、治療はここでお終いです」
「ありのままでいい」の意味が問われている
牧師としてわたしは多くの人にメッセージを発してきた。
「あなたはありのままでいいんですよ」
それはその言葉が、なによりわたし自身にとって心地良かったからである。だが「あなたはありのままでいい」ということは、あなたは今のままでいい、だからわたしはあなたになにもしないという、他者への無関心を糖で包んだ言葉に過ぎなかったのではないか。あるいは、わたしも今のままで行くから、あなたはわたしに余計な干渉は一切しないでくれという、自己と他者のあいだに壁をつくることだったのではないか。
「ありのまま」を批判するというのは「甘ったれんな!」という根性論とはまったく違う。ありのままでよくないからといって、歯を食いしばって無理を耐え忍べというのでは決してないし、そんなことをしていたらそれこそ倒れてしまう。主治医もおそらく、そういうことをわたしに求めたのではなかったはずだ。「ありのままでいい」という言葉に、他でもないこのわたし自身がいったいなにを求めているのかということ。それをこそ吟味しなければならないのだ。
「ありのまま」という言葉を武器にして、多弁な言い訳によって自分を糊塗し、なんでも人のせいにする。自分は無垢な被害者なのであり、つねに他者こそがわたしへの加害者であると、他者を断罪し続ける。それでいいのかが、今、わたしに問われていることなのである。