「死にたい」「生まれてこなければよかった」と思うことも含めて、すべて真剣に生きてきた結果である。一所懸命に生きているのに、それこそ誰かのために命がけで生きてきたのに、的を外してしまうことだってある。誰かを愛して、その愛が相手を傷つけてしまうことが。相手だけでなく、自分も満身創痍になることさえある。最初から意図的に傷つけよう、傷つこうと思って誰かを愛する人はいるだろうか。愛もまた的を外す。主治医と向きあう今、わたしにとっての「ありのまま」像も、この「的外れ」との関連でその姿を浮き彫りにしつつあった。
「ありのまま」を願望する思考の癖
わたしは「これこそがわたしの『ありのまま』だ」という像を、何度も繰り返し、わたし自身という的へ向かって投げ続ける。しかしそれらはことごとく的を外し、わたしの内には今や、的を外した無数の槍が突き刺さっている。それらの槍はわたしの内部に突き刺さったまま、じんじんとわたしを痛め、わたしを内側から傷つけるのである。そうやって、ありのままどころか、わたしを苦しめる無数の自己イメージが、ますます増殖していくのだ。
自分の投げた槍が的を外していることを確認するだけでは、まだ足りない。投げ方を吟味する必要がある。陸上競技で槍投げをする選手は、つねに自分のフォームをチェックし続けているはずである。余計な力が入ったり、不要な癖がついたりしてはいないか。フォームに不備が見つかれば、今度はそれを取り除くための練習を重ねるだろう。
主治医がわたしに要求した「『ありのままのわたし』という願望それ自体を問いに付せ」とは、これである。
わたしのイメージする「ありのままのわたし」というあれこれの理想像は、おそらくどれも的外れである。的外れなだけでなく、わたしを苦しめる縛りや痛みとなっている。それらの理想像一つひとつを吟味していっても、時間ばかりかかって生産性がない。そうではなく、そのような「ありのまま」という槍を投げてしまう、その欲望のしくみ自体に潜む、自分の思考の癖を問わなければならない────これが、主治医がわたしに課したことだったのである。
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