これまで考えたこともなかった自己探求の道
さらにわたしにとって難しいことがあった。いつも他人のせいにしているのが間違いであるなら、なにもかもわたしが悪かったのだ──── 今度は極端な自己卑下に流されそうになる、流されたくなるという傾向である。
主治医がわたしを治療するにあたり、わたしの生きる自信を奪い取ろうとしているわけでは決してないことは、彼の真剣そのものの態度から明らかだった。わたしを自己卑下へと貶めることが、わたしに生きる自信を取り戻させることになるとは、到底思えなかった。だからわたしは、この傾向とも向きあわなければならなかった。
被害者ポジションに居座るのでもなく、根性論でもなく、自己卑下でもない。これまでの「ありのまま」像とは違った在り方を探す。困難な道ではあったが、これまで自分では考えたこともない自己探求であった。
「ありのままでいい」と言ってもらいたいわたしの願望を自己批判せよという主治医の言葉は、たんなる「ありのままではよくない」というのとも違っていたのかもしれない。わたしが「ありのままのわたし」と思っている自己像は、そもそも、ほんとうに「ありのまま」のわたしなのか? そこをこそ問えと、主治医はわたしに要求したのかもしれない。「ありのまま」なんて、自分が思っているほど簡単に分かることではないのだ。そのときどきの自分にとって都合のよい自己理解を「ありのままのわたし」と呼んでいるだけかもしれないし、もしも「ありのままのわたし」というものがあるとしても、それは固定的でずっと同じ状態なのではなくて、どんどん変化していく、川の流れのようにつかみどころのない「ありのままのわたし」なのかもしれないではないか。
キリスト教における「罪」
キリスト教には「罪」という言葉がある。神や人に対して背信行為をしたという具体的な悪事について指す場合も、もちろんある。しかし聖書で使われるギリシャ語がほんらい持っていた意味は、「的を外すこと」である。
古代ギリシャの戦いを思い浮かべてもらいたい。戦場で敵めがけて槍を投げる。戦いは命がけだ。槍が敵に命中しなければ、自分が殺されてしまうかもしれない。旧約聖書にも戦闘中、敵めがけて石を投げる場面がある。いずれにせよ殺すか殺されるかの真剣勝負である。戦場でふざけて、わざととんでもない方向に槍や石を投げる人間などいない。
人間が生きることは、不真面目なことだろうか。もちろん、日々の生活のなかで、ふざけて冗談を言うこともある。だが、ここで言っているのはそういうことではない。人間がこの世に生を享けて、死なずに生き続ける、生き続けようとする、それも他者たちと共に。そのことは不真面目な行為なのかということである。