小学生の頃、ストーブの匂いがむっと立ちこめる薄暗い図書室で、「ムーミン」シリーズを夢中で読み耽っていた。それは、制服を着たままフィンランドの白夜に迷いこむ、静かで幸福なひとときだった。原作小説を読んでいなくてもアニメなどを通して、おそらく誰もが子ども時代にムーミンとの思い出を持っているだろう。しかし、作者トーベ・ヤンソンの他の著作は日本ではさほど知られていない。
本書は、今年没後二十年を迎え、秋には伝記映画「TOVE/トーベ」の日本公開も控えているトーベが、生涯の最後にみずから編んだベスト版短編集。未邦訳だった七編を含む三十一編の多彩な短編をたっぷりと楽しむことができる。
完璧なドールハウスを作ることに取り憑かれた中年の男と、それを見守る友人。ヴェネチアで臀部の彫刻に魅了された夫と、上の空な夫を訝しむ妻。無人島でそれぞれの冬を生き抜こうとする小さなリスと女。地の果ての平野に住む父と、異国で画家を目指す息子。さまざまな組み合わせの「二人」に焦点が当てられ、その魂と魂の共鳴やすれ違いがユーモラスに描かれるが、通底するのは、愛し合いつつも互いの生き方や価値観、そして何よりも孤独を尊重しようとする、しなやかな関係性である。当時としては珍しい女性の芸術家であり、自身も同性愛者であったトーベ。彼女の描く愛は崇拝や依存から遠い、きわめて現代的な愛だ。
現代の日本ではどこか負のニュアンスを帯びて響く「孤独」という言葉を、愛や精神を深めるための大切なものとして明るく捉えなおすこと。何人かの魅力的な登場人物の言動は、ムーミンと親友でありながら一年のほとんどを旅に過ごすスナフキンの姿を彷彿とさせるかもしれない。ただ、自伝的要素も濃厚に含まれる本書では、第二次世界大戦や芸術と政治の問題などシビアな現実社会が具体的に書かれているのが、ムーミンの世界とは少しちがう。
三十一編のうち私がとりわけ心惹かれたのは、初邦訳となる「ボートとわたし」。十二歳の少女「わたし」が自分だけの手漕ぎボートで群島めぐりに出かけ、自分の住む海岸を海の側から眺めようとする話なのだが、フィンランドの夏の描写がとてもみずみずしい。少女の内面の揺らぎが飾り気のない語り口で綴られるだけで、別に何が起きるというわけでもないのに、詩のようなこの一編への愛おしさは何だろう。訳の素晴らしさもあるだろうが、言葉が躍動し、洗いざらしの素顔で語りかけてくるのだ。
本書にはトーベによる実際の書簡のほか、書簡体の短編がいくつか収められているが、そうでないものも含めてすべての文章が、どこか手紙のようななつかしい体温を持っていると思う。四季の美しいフィンランドから届いたこの分厚い手紙は、私たちの記憶と夢に、素手で触れてくる。
Tove Jansson/1914年、フィンランド生まれ。画家、作家。14歳の頃からイラストや創作の仕事を始め、ムーミンシリーズで一躍人気に。70年代からは小説も精力的に発表した。2001年6月に逝去。
おおもりしずか/1989年、岡山県生まれ。歌人。歌集に『てのひらを燃やす』『カミーユ』、著書に『この世の息 歌人・河野裕子論』がある。