文春オンライン

中学時代は「車と競走」していた…! 《100mで9.95日本新記録》 “慶大卒スプリンター”山縣亮太の原点

『四継 2016リオ五輪、彼らの真実』より#1

2021/06/09
note

突然の激しい腰痛、ベッドから起き上がれなくなった

 高校2年の2009年に世界ユース選手権100m4位。大学2年で12年ロンドン五輪に初出場。100mで準決勝まで進んだ。予選でマークした10秒07は五輪における日本人最速記録だった。大学3年の日本選手権では、10秒01を出した直後の桐生に競り勝ち初制覇。ユニバーシアード銀メダルと順調にキャリアを積んだ。 

 突然、体が悲鳴をあげたのは、その秋だった。日本学生対校選手権を終えた翌朝、激しい腰痛でベッドから起き上がれなくなった。特に前屈をすると、感じたことのない痛みが走った。 

「これ、スターティングブロックを蹴れるようになるのか……」 

ADVERTISEMENT

 不安は小さくなかった。休養すれば収まるかとみていたが、その後も痛みは引かない。翌年の2月には、ついに左臀部から左足の指まで全く力が入らなくなった。 

 診断結果は「軽度の椎間板ヘルニア」。

 調べてみると、骨盤も右側が下がり、左側が上がる形でゆがみ、それに合わせて背骨も曲がっていた。整体に通い、痛みをなだめすかす日々が始まった。

 腰痛に効くと言われる体操を取り入れ、さらに体幹を締めるために呼吸法も変えた。腰骨から少し下の脚の付け根の部分に、息を吐ききった時だけ力が入る箇所がある。常にそこを意識して呼吸をするようにした。

「普通、呼吸をするとお腹が膨らむけど、お腹をへこませて、そのまま呼吸する感じですね。そうしていくと体の芯を使える。体の密度を上げる感じです」 

 このシーズンは、モスクワで行われた世界選手権100m予選で左太もも裏を肉離れして、400mリレーを欠場。さらに、この腰痛である。

「山縣は怪我がちだ――」 

 周囲がささやく声が、聞きたくなくても耳に入ってきた。 

©JMPA

「正しいと思って取り組んできたことも、結果が出なければそれは正しかったと言えない」

 腰はその後の治療のかいもあって、少しずつ良くなっていった。だが、なかなかトップフォームには戻らなかった。翌14年はターゲットを仁川アジア大会100mに絞っていたものの、結果は10秒26で6位。準決勝で左股関節を痛めたことも影響し、表彰台に届かなかった。欠場した桐生の代わりに急遽、100mに出場した高瀬が銅メダルを獲得した姿を見るにつけ、余計に自分を不甲斐なく感じた。メダルが手元にない仁川の夜、あまりの悔しさに食事は喉を通らず、満足に眠ることもできなかった。 

 やるせなさはなかなか消えなかった。帰国後、横浜市港北区の慶大グラウンド。

 差し向かいで改めて聞くと、こう大会を振り返った。

「何やっているんだろうって。自分は正しいと思って取り組んできたことも、結果が出なければそれは正しかったと言えない。自分がやってきたことは何だったのか、と。大学ではいろいろ試合がありますよね。『他の学生は、たとえ結果が出なくても何も変わらないけど、自分は立場が違う』というふうに考えてたんですけど、結局、一緒じゃないかって。結果が出てないじゃないかって。自分は甘かったんじゃないかって思ったんですよ」