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3学年下のライバルに見せ付けられた力の差

 気持ちの整理、走りの課題、そして、その対策。ひと通り語った山縣は、寒風をほおに受けながら寂しそうに視線を落とした。

「僕は、足が速くなりますかね……」

 そして、決定的な転機が訪れる。15年3月29日のテキサス・リレー。

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 最高速に乗るレース中盤。山縣は目一杯、脚を回転させた。自分より回転が上回っている外国選手が横目に入った。その外国選手を引き連れるように先頭を白いユニフォームが疾走していた。7レーンの山縣の目に入ったのは4レーンの桐生の背中だった。その背中は遠かった。果てしなく遠く感じた。

「10~20mを残して心が折れた」 

 そんなレースは人生で初めてだった。追い風3.3m の条件で、桐生9秒87。

 山縣は、10秒15だった。 

 3学年下のライバルに見せ付けられた圧倒的な力の差。追い風参考とはいえ、先に9秒台を出された事実。それも同じレースで。全身から力が抜け、日本の関係者が待機する場所に向かうことすらできなかった。駐車場をふらつき、通りがかった外国選手に「アー・ユー・オーライ(大丈夫か)?」と声を掛けられたが、まともに応えられなかった。しばらくして、自身をサポートしてくれているナイキの関係者にメールを送った。

「ショックで、しばらく立ち直れなさそうです」

 そして、その陰で静かに1つの決断を下した。 

「もう、このままじゃいけない。万全にしないと世界では戦えない」 

 痛めては治し、治しては痛めを繰り返してきた腰を、どんなに休もうとも完治させようと決めた。

©文藝春秋

「もう……自信がどんどんなくなっていった」 

 地元・広島で行われる4月の織田記念国際と、所属先の冠大会、セイコーゴールデングランプリ川崎を欠場した。万全になれば速く走れる。そういう自信があった。桐生にも負けない。根拠はなかったが、ずっとそう思えていた。ただ、2年以上、自己記録を更新できていないことも、また重い事実として目の前に突きつけられていた。 

 戦線から離脱してすぐの5月、米国・ユージンで行われたダイヤモンドリーグで蘇炳添 が9秒99をマークしたというニュースが飛び込んできた。このタイムは中国新記録。400mリレーのアジア記録に続いて、黄色人種で初めて10秒の壁を破るという栄誉も中国に持っていかれた。

 しかも、このレースは山縣が当初、出場を検討していた大会だった。自分が立つべきだった場所で、先を越された。

「焦ったし、自分ができることがないから、ただ、もう……自信がどんどんなくなっていった」 

 トンネルの中、光は全く見えなかった。 

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