陸上競技短距離の山縣亮太選手が、6月6日に行われた布勢スプリント男子100mで9秒95を記録しました。この記録は2019年にサニブラウン・ハキーム選手が記録した9秒97を0秒02縮める日本新記録。五輪本番でも決勝進出レベルのタイムを叩き出しました。
産経新聞運動部で長年日本の短距離界を追い続けている宝田将志記者が、2016年のリオ五輪後に代表スプリンターたちの素顔に迫った『四継 2016リオ五輪、彼らの真実』(文藝春秋)の一部を抜粋し、ケガに苦しんだ山縣選手を支えた仲間のエピソードを紹介します(※日付、年齢、肩書きなどは当時のまま)。(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
マネジャーとまでは言わなくても…サポートが必要
陸上部のないセイコーホールディングスに入ることになった山縣を1人の友人が心配し ていた。慶大競走部で同期の瀬田川歩である。
「4月からちゃんと競技できる環境なのかなって。セイコーは大会のエントリーとかノウハウがなかったし、山縣クラスの選手だと主催者側から大会の斡旋もある。マネジャーとまでは言わなくても、そういう担当は必要だろうと思っていました。何も分からない人が担当に付いたら大丈夫なのかなって」
瀬田川は慶応高校から慶大に進み、競走部で主務を務めていた。いわゆるマネジャーだ。選手としては走らないが、山縣に関することも含め部の運営全般を仕切っていた。
山縣は理知的にしゃべるので、しっかり者のように見えるが、集中力が高いため、陸上のことに思いを巡らせ始めると周りに目が行かなくなるタイプである。代表入りしてすぐの頃は、集合時間に遅れて先輩を待たせることがしばしばあったし、練習中も考えごとをしながらメンバーから離れて1人で歩いていってしまうこともある。
そういう素顔を知っているだけに瀬田川は心配だった。自身は大手損害保険会社に内定しており、卒業後の4月からは別々の道を歩むことになっていた。
「どうなっているんですか?」
ある日、瀬田川は競走部の監督、川合伸太郎に聞いてみた。そして、こう言い添えた。
「最後の最後、選択肢がないなら、手伝ってもいいと思っているんですが……」
すると、川合はすぐにセイコーと瀬田川の会合をセッティングしてくれた。瀬田川はA4の用紙数枚に大会エントリーや取材対応など、山縣に関する事務関係事項をまとめて説明に赴いた。