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「乗りかかった船」だと腹を決めて…

 同席した川合は、すでに瀬田川がマネジャーを務めたい、務めるという前提で話を進めている。あれよあれよという間に、セイコーから「頼みにくいんだけど、瀬田川君、手伝ってくれないかな」と言われ、マネジャー役を引き受ける流れになっていた。すでに卒業式を終えた3月中旬のことである。 

 これも乗りかかった船だと、瀬田川は腹を決めた。 

「山縣から見たら、自分くらい気を遣わずに仕事を任せられる人間もいないだろうという自負はありましたしね」 

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 セイコーの申し出を快諾し、内定していた損害保険会社に、就職を辞退する旨を伝えた。「それでは申し訳ない」と、セイコーから入社を打診されたが、提示された職種は自分が志向するものではなかった。

「僕は人と接する仕事がしたいんです。誰かのために頭をひねる仕事が」 

 瀬田川は競走部を引退後、アルバイトをしていたテーマパークの運営会社と面談し、正社員として働くことになった。運営会社でテーマパークの出演者の給与管理などマネジメント業務に就く一方、セイコーから手当をもらう形で、山縣のスケジュール管理をしたり、週末の試合に同行するなどサポートに汗を流す生活が始まった。

「うちの川合監督は、こちらからひと言言うと、5歩くらい先まで突っ走ってくれるんですよね」 

“二足のわらじ”をはくことになった新社会人は、口では困りますよと言いながら、充実した笑顔をたたえていた。 

©文藝春秋

山縣を支えた「もう1人の人物」

 もう1人、この時期に山縣を支えた人物がいる。古賀友矩。慶大競走部で山縣の2学年上のOBで、世界水泳選手権男子100m背泳ぎ金メダリスト・古賀淳也の実弟である。山縣が腰痛の本格的な治療に取り組み始めた直後、「治療の勉強をしているけど、どうだ?」と連絡を取り、交流が再開した。 

 古賀のキャリアは少し変わっている。400m障害の選手だったが、大学3年で退部。その後、兄がトレーニングと語学留学のために米国・シアトルに渡ると、休学して一緒に3カ月ほど米国に滞在した。

「ちょくちょく兄の練習を見ていて、やっぱり現場がいいなと思ったんですよね」 

 米国から帰国すると、すっぱり大学を辞め、柔道整復師の資格を取ろうと専門学校に通うようになった。 

「もったいないなと思いますよ、自分でも。部と大学を続けていたら、今頃、人並みに稼いでいたんだろうなって。でも、楽しくなかっただろうとは思います」