「セイコーさんは“選択肢”を与えてくれる」
その2年前の夏、ナショナルトレーニングセンターから最寄り駅まで肩を並べて歩きながら、進路の話題になると山縣はぽつりと言った。
「実は実業団じゃないという選択肢も考えているんですよね……」
先行きの見えない大学3年生の頃から、他の学生とは違った角度で就職を捉えていたようだった。
セイコーには「慶応」の縁があった。同社の服部真二会長、中村吉伸社長(当時)とも慶応大学の出身。特に服部会長は中学、高校とテニス部に所属し、全日本庭球選手権幼年の部(5歳以下)のダブルスで全国準優勝を飾ったほどの腕前で、スポーツへの理解が深い。5月のゴールデングランプリ川崎の特別協賛社にもなっている。なお、同社に所属していたロンドン五輪フェンシング男子フルーレ団体銀メダルの三宅諒も慶大の出身だ。
「より良い競技環境という意味では実業団だと思う」
そう山縣は語る。
「だけど、セイコーさんは“選択肢”を与えてくれる。何が必要か考えて会社側に提示することで、できることの可能性が広がる。自分はわがままだし、人と違ったことをしたいという気持ちがあったから」
そして、こう続けた。
「陸上が続けられるということは恵まれていること。結果で恩返ししたい」
心の声に従えるのは「幸せ」
この心境は、競技継続を悩んだ時期があったことと無関係ではない。
山縣は就職活動を始めるにあたり、広島の両親に相談を持ちかけている。大学3年の冬、腰痛を発症したこともあって、自身の進路に頭を悩ませていた。
「このまま走り続けていいのだろうか――」
そう聞くと、逆に父の浩一から問い掛けられた。
「お前はどうしたいんだ」
「改めてそう聞かれた瞬間、やっぱり『走りたい』と思ったんですよね」
心の声に従えるのは幸せなのだと気持ちが固まった。その一方で、走ること、それも速く走ることだけで評価される生活への不安は少なからずあった。
山縣は1992年6月1日生まれ、広島市西区出身。陸上を意識したのは小学3年生の時だ。2つ上の兄が広島市のスポーツ交歓大会100mで7位に入賞して賞状をもらってきた。
「その賞状がすごく大きくて。うらやましいなって」