「走ることは自分の天職だ」と思いはじめた小学校時代
山縣少年は4年生になった翌年、満を持して、その大会に出場。すると、走る姿が地元 の「広島ジュニアオリンピアクラブ」の指導者の目に止まった。400m障害世界選手権銅メダリストの為末大も所属していたことで知られる同クラブ。副会長の日山君代は当時を振り返る。
「腰が上下動せず、体幹がしっかりしていた。上半身が揺れる子どもが多い中、これはすごい、と。めったに見られない走りだった」
興奮そのまま、夫でクラブの会長を務めている正光と客席で山縣の両親を探しだし、「一度、練習に来てみてもらえませんか」とスカウトした。
当時、山縣は少年野球をやっていた。もちろん地元・広島東洋カープのファンである。打順は1番、ポジションはショート。将来の夢は「1億円プレーヤー」だった。なので、陸上クラブに誘われて練習に通うようになってからも、しばらくは野球との掛け持ちだった。だが、陸上のチームメートに「野球に行っていて、土曜日の練習に来ないじゃん。そういう奴に負けるのは嫌だ」と言われたり、100mの競走で、スパイクをはいたクラブの子にランニングシューズで勝ち、「走ることは自分の天職だ」と考えるようになり、陸上一本に絞るようになった。
自らの頭で考え、走りを磨く能力が実績に…
現在、山縣の走るフォームは、ファンや関係者に「無駄がない」「きれい」と評されることが多いが、昔はそうではなかった。腕が横振りだったのだ。変わるきっかけは、正光のひと言だった。
「腕振りを良くしたらタイムが上がるよ。腰の横に大根を置いて腕でスパッと切るように イメージしてごらん」
このアドバイスを受けて、今につながるフォームが形作られていった。実力がぐっと伸びたのは中学から高校にかけての時期だ。
当時、交際していた女性に振られてしまい、自分を磨こうと坂道ダッシュで追い込み続けたところ、高1の春に10秒95と10秒台に突入。
「初めて自分で自分を越えようと思ったのが、あの頃です。記録が出たのが嬉しくて、未練はなくなっていました」
青春の苦い思い出は、同時にアスリートとして、1つ殻を破るきっかけになった。
そして特筆すべきは、その学歴だろう。他のトップスプリンターとはひと味違っている。高校は広島県下有数の進学校・修道高。東大や京大への進学を目指す生徒もひしめく文系のトップクラスに籍を置き、AO入試を経て慶大へと進んだ。決して陸上の強豪校でない環境にも関わらず、実績を挙げてこられたのは、自らの頭で考え、走りを磨く能力に長けているからに他ならない。日本のトップに登り詰めるようなスプリンターで、コーチらしいコーチを付けていない者は珍しい。