「僕はいまでも複数犯と考えていますね」
犯人を現場から取り逃がしはしたものの、塗装されたニセの白バイや、別の現場に残されていた逃走用車両など、多数の遺留品から容疑者は簡単に特定されると思われた。
だが、捜査は意外な難航を見せる。単独犯か、複数犯かをめぐって意見が割れた捜査は迷走し、ついに真犯人を検挙できないまま、7年後の1975年に公訴時効を迎えた。事件の核心はいまなお謎に包まれている。
「僕は、平塚八兵衛さんの考えには賛成できなかった。あの人は終始単独犯を主張したけれども、僕はいまでも複数犯と考えていますね」(三好さん)
平塚八兵衛は、警視庁で「捜査の神様」と呼ばれた伝説の刑事である。迷宮入りが濃厚視された吉展ちゃん誘拐殺人事件(1963年)を、執念の捜査で解決に導いたことで知られる。上司や同僚に対しても、物おじせず自説を主張するため、ついた異名は「ケンカ八兵衛」。自分自身が見て聞いたことしか信じないという、妥協なし、職人肌の人物だった。
3億円事件では事件発生から4カ月後、平塚八兵衛とは盟友関係にあった武藤三男捜査一課長(当時)の依頼で捜査に加わることになった。平塚は、その時点で主流だった複数犯説を完全否定し、単独犯行であると主張した。だが、これが捜査迷走の大きな原因になったとも指摘されている。
「複数犯だと思っていても、八ちゃんの言うことに誰も異を唱えることができなかった。部下はもちろん、上司もね。ただ、平塚八兵衛の言うことが絶対ということはない。名医は自分の成功した手術については語るけれども、失敗した手術もたくさんあるわけです。ただ、それを語ることはないからね」(三好さん)
事件を深く調べるようになったきっかけは…?
三好さんがこの事件を深く調べるようになったのには、あるひとつのきっかけがあったという。
「事件が起きた翌年(1969年)の10月だったかな、警視庁の刑事が話を聞きたいと言って僕のところに連絡があったんですよ」(三好さん)
すでに事件発生から10カ月以上が経過していたが、犯人に直接結びつく手がかりは浮上せず、捜査は手詰まりになっていた。
「集められたのは梶山季之、佐野洋、結城昌治、生島治郎、そして僕の5人でした。場所は、当時カジさん(梶山季之)が仕事場にしていた平河町の都市センターホテルです」(三好さん)