「良かったね。パパは、甘いから」
この時の心境を晴彦は次のように語る。
「病院の看護師と電話で話をした後、恋を呼んで、明日面接に行くよ、と話しました。入院するかもしれないということもつたえました。最初は嫌そうにしていましたが、私が携帯で撮った瑞貴の怪我の写真を見せて、君にはどうしても治療が必要なんだと説得したら、彼女は渋々『わかった。今度は入院する』と答えました。ホッとしましたね。これで当面は瑞貴に害が及ぶことはないし、恋も良くなってくれるだろうという期待があったんです」
晴彦は彼なりにベストの対処をしたと言えるだろう。だが、院長の不在による面談の一日のズレが、痛ましい事件を引き起こすことになる。
会社で翌日病院へ面談に行くことを話し終えた後、晴彦は予定通り恋と瑞貴を連れて通夜へ行った。帰りは、近所のショッピングモールに寄って、夕飯を食べることにした。
ショッピングモールは、年の瀬ということもあっていつもより混雑しており、店も華やかに飾られていた。瑞貴はそれが嬉しかったらしく浮かれていて、店頭に人気キャラクターの入浴剤が並んでいるのを見て「ほしい!」とせがんだ。晴彦は同じ入浴剤が家にあったことから、別の入浴剤を買い与え、人気キャラクターのガチャガチャをさせてあげた。
恋はそんな二人の様子をじっと見てつぶやいた。
「良かったね。パパは、甘いから」
晴彦は気がつかなかったが、恋にしてみれば自分を精神病院に入院させ、瑞貴だけをかわいがる夫への精いっぱいの皮肉だった。
ショッピングモールで食事と買い物を終えてから、晴彦たちは車で会社にもどった。自宅マンションまでは一ブロックしか離れておらず、徒歩で3分ほどだったため、会社の駐車場に車を止めていたのだ。
この時、恋が黙って階段を上って事務所に入った。晴彦と瑞貴が外で待っていると、すぐに下りてきたので、三人で自宅へと帰ることにした。
マンションにもどったのは、午後9時過ぎだった。家に入ると、大きな窓からは東京の下町を展望することができた。地上から13階の部屋までは39.6メートル。周りの建物の多くはそれより低かった。
晴彦がエアコンで体が温まるのを待っていると、瑞貴が買ったばかりの入浴剤を手にして「これでお風呂に入りたい!」と無邪気に言ってきた。その時、恋がさっさとバスルームへ入ってしまった。彼女は風呂が長く、1時間以上入っているのが普通だ。晴彦は瑞貴を慰めた。
「あーあ。ママが先にお風呂に入っちゃった。仕方ないから、パパとベッドでゲームをしよっか」
一日中外にいたため、相当疲れているはずだ。ベッドで遊んでいれば、そのまま眠るだろう。風呂は明日でいい。