太平洋に浮かぶ小さな島で、日本軍の将兵6500人が孤立無援の“置き去り”状態になり、5000人が餓死、病死した悲劇があった。極限状態に陥った「絶海の孤島」で、何が起きていたのか――。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の1回目/#2を読む)
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「サイパン陥落」で日本からの補給が途絶えた
マリアナ諸島の南方に位置するメレヨン島(現・ミクロネシア連邦ウォレアイ環礁)は戦時中、日本軍の拠点の一つとなった。サイパン島やグアム島など、マリアナ諸島への米軍の侵攻に備えるためである。
島内には陸海軍合わせて約6500人もの将兵が駐留。飛行場の建設にも着手したが、米軍の空襲によって計画は思うように進展しなかった。
昭和19年7月にサイパン島が陥落すると、メレヨン島への大規模な輸送は困難な状況に陥った。日本本土とメレヨン島の間に位置するサイパン島の喪失は、輸送の分断を意味した。孤立を余儀なくされたメレヨン島では食糧不足が顕著となり、訓練や陣地の構築よりも「自活」が優先されるようになった。
米軍は「飛び石作戦」によってメレヨン島を「無視」して、日本本土に進軍していった。周囲の制海権を喪失したメレヨン島は、太平洋上に軟禁されるような状況となった。