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自生するバナナやマンゴーは米軍が焼き払い…

 補給物資の絶対的な不足により、メレヨン島は「飢餓の島」へと落ちていった。

 島にはもともとバナナやマンゴーの木などが自生していたが、米軍の空襲によってその大部分は焼き払われた。米軍が上陸してくる気配はなかったが、空襲はその後も断続的に行われた。

 当初、島の守備隊員には軍の規定通り、1日に米720グラムが支給されていた。しかし、その量は次第に減少し、8月下旬には290グラム、そして9月下旬にはついにわずか100グラムにまで減らされてしまった。将兵たちは水気の多いお粥を、ゆっくりと味わいながら咀嚼した。

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 守備隊は自給自足体制の確立を目指して「農耕班」や「漁労班」を組織。自活の道を懸命に模索した。独立混成第50旅団長・北村勝三陸軍少将は「全員百姓」「全員漁師」と訓示。将校らに対しては、部下の命を守ることを厳命し、そのために全力を尽くすよう求めた。北村は「将校は主計であり軍医であれ」とも命じた。

 長野県出身の北村は、陸軍士官学校(26期)を卒業後、シベリア出兵や日中戦争に参戦。元来、部下思いの温情ある性格だったと伝わる。

 そんな北村が推し進めた「現地自活主義」だったが、主にサンゴ礁から成るメレヨン島は畑作には適さず、肥料も不十分だったため、芋やカボチャを植えても収穫量は期待を大きく下回るものだった。

写真はイメージ ©️iStock.com

食べたい、食べたいの飢餓地獄

 また、漁具が足りないため、魚を採ることも難しかった。手榴弾を使った漁なども行われたが、やがて爆薬類も底をつき、不可能となった。

 食糧の増産は計画通りには進まなかった。歩兵第41連隊の歩兵砲中隊で指揮班長を務めていた田邊正之は、当時の状況を後にこう記している。

〈飢えの身となっては食べたい、食べたいとの飢餓地獄に落ちて行った。私は小さい網を作り、暇を見ては海岸に出ては石礫の間にいる小さな雑魚を獲り、石でそれを搗き砕いて生で海水と食べていた。海の荒れない日は毎日実行していた〉(『永遠の四一』)

 結局、島内にいたトカゲやネズミ、ヤシガニやヤドカリなどが、将兵たちの貴重な蛋白源となった。とある生還者の一人はこう証言している。

〈「島の守り神」といわれていた一メートル級の大トカゲは、すぐにいなくなった。人さし指ほどのカナヘビは、焼くと縮むので生で食べた。落ちたヤシの実に付くウジ虫は甘味があり、奪い合うようにして食べた〉(「北海道新聞」2005年1月15日付)