太平洋に浮かぶ小さな島で、日本軍の将兵6500人が孤立無援の“置き去り”状態になり、5000人が餓死、病死した悲劇があった。極限状態に陥った「絶海の孤島」で、何が起きていたのか――。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の2回目/#1を読む)

“悲劇の島”メレヨン島から帰還した復員軍人(1945年9月26日、大分・別府港) ©️共同通信社

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飢餓で、靴用クリームを舐める者も…

 メレヨン島の食糧事情は、さらに悪化していった。キノコや雑草、木の葉を口にする者もいたが、下痢を起こして身体の衰弱を早めてしまう場合が多かった。靴用のクリームを舐める者まで現れた。

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©️文藝春秋

 やせ細った兵士たちは、食べ物の話をした。汁粉や羊羹の話題がよく出たという。

 極限を超えた飢えや渇きの中で、多くの兵士たちが無念の思いと共に餓死していった。餓死者の遺体は、どれも骨と皮だけのような状態であった。当初は遺体を埋葬していたが、やがて穴を掘る体力もなくなり、そのまま放置されることもあったという。

 栄養失調による餓死者の他、アメーバ赤痢やデング熱、脚気といった疾病にも苦しめられた。医薬品も不足し、患者にはヤシの実の果汁をブドウ糖液の代わりに注射した。戦病死者の数も日に日に増えていった。

 さらに、将兵たちを悩ませたのが、「自分たちの存在意義」を見出すことの難しさだった。メレヨン島を無視するかたちで進軍した米軍は、日本本土への空襲を繰り返していた。にもかかわらず、自分たちは「絶海の孤島」に取り残されたまま、何もすることができない。

 祖国、故郷が焦土とされていく中、将兵たちの嘆きと苛立ちは深まるばかりだった。