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戦わずして玉砕する悲劇

 結局、メレヨン島に米軍が上陸することは最後までなかった。メレヨン島では白兵戦などの地上戦は起きなかった。

 島の将兵たちは9月20日、病院船「高砂丸」に収容され、孤島を脱した。中野の日記には、こう記されている。

〈午前十一時メレヨン礁外を出港。愈々ドラがなり、出港用意が叫ばれた。船は動き出した。メレヨンの英霊にありがたく感謝する。俺らのかえれるのも戦友のおかげだ〉(9月20日)

 結局、生きて日本に帰ることができたのは、6500人ほどいた将兵のうち、1626人に過ぎなかった。

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メレヨン島から生還した復員軍人たち(1945年9月26日、大分・別府港)  ©️共同通信社

 メレヨン島は「戦わずして玉砕した悲劇の島」として歴史に刻まれることになった。将兵たちは敵兵と戦うことすらできず、飢えや病いによって斃れていったのである。

 以上がメレヨン島における惨劇の実態だが、この歴史的事例から浮かび上がってくるのは、「サイパン島が陥落した場合、メレヨン島はどうするのか」という戦略の欠如である。当時の大本営は「希望的観測」に引きずられ、「失敗した場合」や「最悪の事態」への対策が不十分だった面が否めない。「必勝」を期するあまり、それが叶わなかった時への対応に「隙」が生じたのである。

 さらに、東京では延々と協議が繰り返されるばかりで、具体的な対策の決定が遅々として進まないという側面もあった。

 これは現在の「コロナ対策」や「ワクチン計画」においても、共通する部分があるのではないか。

終戦後、部下の遺族を訪ね歩いた旅団長

 軍医の中野嘉一は帰国後、自宅のある愛知県豊橋市に戻ったが、家は空襲で跡形も無くなっていた。妻子は妻の実家のある千葉県に帰ったという話であった。

 妻の実家で中野を迎えたのは、つらい現実だった。妻は無事だったが、子どもは戦時中に病いによって亡くなっていたことを中野は知った。

 その家には中野の位牌が置かれていた。すでに戦死したと思われていたのである。妻が言った。「身代わりに子どもが死んでくれたんですね」。

 メレヨン島防衛を担っていた独立混成第50旅団長・北村勝三陸軍少将は復員後、部下の遺族のもとを訪ねる旅を続けたが、それを終えた昭和22年8月15日、割腹自決を遂げた。

(文中敬称略)

参考文献
『永遠の四一 歩兵第四一連隊の足跡を訪ねて』大田祐介 福山健康舎
『メレヨン島・ある軍医の日記』中野嘉一 宝文館出版