メレヨン島から生還の叔父は「不思議と蟹だけは食べなかった」
小森宮の甥にあたる康之さんに話を聞いた。康之さんは今は亡き叔父についてこう振り返る。
「『島では何でも食べた』と話していましたね。それから、これは飢餓生活の影響だと断言できるわけではないのですが、叔父はとにかく『食べること』が大好きで、大変な美食家でした」
康之さんが続ける。
「ですが、不思議と蟹だけは食べないんですよ。戦争前は食べていたらしいんですがね。『蟹という字を見るだけでも嫌だ』なんて言っていました。こういったところは、島での体験によるのかもしれません」
とある軍医が書き残していた日記
小森宮らが島を離れた後も、島内の飢餓地獄は続いた。
島内の患者療養所で軍医を務めていた中野嘉一は、ほぼ毎晩、日記を書いていた。島には電気がなかったため、缶詰ローソクの明かりを頼りに綴ったその日記には、島内の日常が淡々と記されている。(以下、『メレヨン島・ある軍医の日記』より引用。適宜、旧字を新字に改めた)
〈午前七時山田、兼松上等兵死亡。元気体格大なる男なりしに悲しむべし。死ぬ前日迄治療に従事。昨夕は健胃錠処方をかいてくれと頼んだことは彼の最後の言葉だった〉(6月8日)
患者療養所といっても、椰子の木を使って建てた粗末な丸太小屋である。医薬品の欠乏により、助かるはずの命が多く失われた。
ちなみに中野は慶應義塾大学医学部の出身。戦前は東京武蔵野病院に勤務し、麻薬中毒のために同病院に入院した太宰治の主治医を務めた人物でもある。妻子を日本に残してのメレヨン島での日々であった。
そんな中野の日記をさらに見ていこう。
〈昨夜死亡した測候所患者の指切(遺骨用)にゆく。〔遺骨用に指を切りとり缶に入れこれを焼却、指骨をとる。このことは他の部隊でも行われた〕〉(7月17日)
日本の敗戦
8月15日、日本は敗戦。戦争は終結した。中野がその事実を知ったのは、3日後の18日のことであった。
〈隊長急用司令部へ。何かあるらし! 五時隊長帰隊。重大時局発表‼︎ 遂に日本停戦協定〉(8月18日)
中野はその翌日の日記にこう綴っている。
〈遂に戦いは終ったのだ。あっけない気もするが生命だけ助かったという、安心の境地に入る〉(8月19日)