記憶喪失者が記憶喪失に悩まないのは「医学的に正しい演技」
――よく、自分にとって都合の悪いことはどんどん忘れていっちゃう人がいると思うんですが、それも「自己保護」の一種なんでしょうか。
糸川 ハハハ。まあ、それを「症状」として見ればそう言えると思います。人間にとって体の異変、症状というものは自分を守る意味があるんです。例えば妊娠中のつわり。あれは胎児にとって好ましくないものが体に入ってこないように、吐き気を催しているわけです。ノロウイルスを体から全部出しちゃおうという嘔吐下痢もそうですし、インフルエンザになったら高熱が出るというのも、インフルエンザウイルスは熱に弱いから、やっつけるために体がわざと発熱しているということなんです。
――『ひよっこ』では、記憶喪失者である実の演技についてアドバイスをされたりはしたんですか?
糸川 台本は送られてきましたので、それにコメントを返していました。例えば、記憶喪失の人は思い出せないことに苦しんでいるんじゃないかって、思いますよね?
――たしかに、記憶が戻らないことに悩んでいるだろうと想像しますね。
糸川 みなさんそう考えると思うんですが、実は記憶喪失者自身はその点に関しては特に何も感じていないものなんですよ。これを医学用語で「満ち足りた無関心(la belle indifference)」と言うんです。だから、沢村一樹さんが、悲しみに暮れている有村さんから「お父ちゃん」って呼びかけられても、なんとなくポカーンと所在なげに「すいません、申し訳ありません」って佇んでいる感じ、あれは医学的に正しい演技なんです。
――なるほど、そうだったんですね。他にアドバイスを求められた場面はありますか?
糸川 記憶を失くした実が奥茨城に帰って、田植えをすることはできますか、という質問を受けましたので「できます」と答えました。
全てを忘れているのに、田植えができたのはどうして?
――これまでの生活を全て忘れているのに、田植えの仕方は覚えているんですか?
糸川 人間の記憶には4種類ありまして、それぞれ脳の分担する場所が違うんです。そのなかの「エピソード記憶」というものは、脳の「海馬」という部分とその周辺が担当しています。いわゆる「昨日、友人とテニスをして帰りに映画を見た」といった生活史的な思い出とか、まさに私たちが普段「記憶」と言っているようなものです。今の田植えの話に関連するのは「手続き記憶」。これは自転車に乗れるとか、クロールで泳げるとか、カンナが引けるとか、運動機能についての記憶で、海馬とは全く違う場所に記憶として保存されているんです。ですから、田植え技術は「手続き記憶」として実の中に備わったままなので、自然と田んぼで体が動く。
――記憶を失っているはずなのに、なんで田植えはできるんだろうって、みんなが不思議そうにする場面があったように思いますが、これも医学的には正しいことだったんですね。
糸川 記憶はどこかで保たれているはずなんです。人間って分子レベルでいうとタンパク質の集合体なんですね。そのタンパク質は日々代謝され、食事で摂取するアミノ酸を再合成して作り替えられていますから、日々刻々と「私」というものは入れ替わっている。生物学的には一か月前の私と今日の私は別人間なんです。福岡伸一先生の言う「動的平衡」です。あるいは釈迦が言った「輪廻」というものが言い当てていることかもしれません。では、なぜ私は私と言えるのか。記憶が私を連続した個体として支えているからです。