大きな反響を呼んだNHK朝の連続テレビ小説『ひよっこ』には、分子生物学者にして精神科医という異色の研究者・糸川昌成さんが“医療監修者”として携わっていました。どんなアドバイスをしていたのか? お話は精神医療と『ひよっこ』の世界観をつなぐ興味深いものでした。
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お伝えしたのは「全生活史健忘」という症例です
――『ひよっこ』は放送終了後も総集編が大きな話題になるなど、多くのファンの記憶に残る作品になりました。このドラマに糸川さんが医療監修者として携わったきっかけを教えてください。
糸川 ディレクターの方から「登場人物の一人が記憶喪失になる物語なのだが、医学的に現実性があるかどうかチェックしてほしい」と、私の研究所事務局にメールがあったのが最初です。精神科医として臨床で診察も行なっていますが、私は主に精神病の原因を遺伝子から探る分子生物学の「研究医」として仕事をしているんです。だから国内外の研究論文や文献を調べるのは得意ですし、そういうことならと、依頼を引き受けることにしました。
――時代劇における「時代考証」みたいに、医学的にありえるかどうか、作品にアドバイスする役割なんですね。
糸川 そうです。物語は、有村架純さんが演じたみね子のお父さん・実が記憶を失うという設定でした。その記憶喪失の理由としてふさわしい症例は何かと相談を受けました。これについては「全生活史健忘」という症例を参考にお伝えしました。
――全生活史健忘……。物語では、東京に出稼ぎに来ていた実が暴漢に仕送り金を奪われたことが、記憶喪失の一つのきっかけになっていましたが、どういう因果関係があるのでしょう。
糸川 あのお父さんにとって、奥茨城の家族への仕送りは重みのあるものだったはずです。そうしたかけがえのないものを失ったことは、実という人物にとって「死」を意味するくらい衝撃的なものだったと思います。こうした、思い出すこと自体が自殺の引き金になるような強いストレスを体験した時、人間には記憶そのものを体から排除してしまうシステムがあるんです。自分の命を守るために、記憶がリセットされる。この自己保護的な「全生活史健忘」には、十何年記憶を失ったままというアメリカの症例が論文にありまして、「典型例ではないけれどありえないことではない」と意見を伝えました。そういった意味で『ひよっこ』は医学的根拠に基づいた物語構成にもなっているんです。