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「肉親の謀殺と判明 母と妹犯行を自供 下手人は母親!」(東朝)、「凶刃にわが子を惨殺 父親が教唆、妹も片棒擔(担)ぐ」(東日)、「果然!母親が殺した 骨肉の子にこの凶刃」(読売)。紙面にこうした見出しが躍ったのは12月29日付朝刊。各紙の見出しは犯行の光景も入れていずれもすさまじい。「鬼畜の惨虐白日下に」(東朝)、「残虐鬼畜・母性愛の喪失」(東日)、「悪鬼もひるむ大惨劇」「呪われた 淫蕩の父子」(読売)。犯行の生々しい光景も見出しになった。「『お母さん分かつたよ』 断末魔の一語」(東日)、「“末期の水”と叫ぶ子を 形相凄く滅多突き 苦悶の口を押へ(え)る妹」。東朝の本文書き出しはこうだ。

全容解明の紙面は全面展開だった(東京日日)

「日大3年生・徳田貢(25)殺し事件につき、捜査当局では、同人の実父、医師寛(52)が貢に対し6万6000円という巨額な保険をつけた点に疑惑を持ち、父寛、母はま(46)、妹栄子(21)を先月30日、一応召喚したが、3名とも全然否認し続けるので、ついに釈放」「16日再度召喚、厳重なる取り調べを進めた結果、18日午後4時に至り、本富士署に留置中の妹栄子が、さすがに良心の呵責に耐えかねてか『私が兄貴を殺害致しました。父や母はなにとぞお許しください』と、両親をかばって泣き崩れたので、捜査当局は駒込署に留置中の母はまを追及の結果、ついに母親及び妹栄子2名が貢殺しの戦慄すべき犯行を自供。ここにさしも難事件を予想させた血の惨劇も解決するに至り……」

 各紙とも犯行の模様や、それに至る経緯、3人の態度などを詳しく伝えているが、内容は新聞によって微妙に異なっている。再び大審院判決に従おう。現代語にして要約する。

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火災保険詐欺を狙って放火も依頼していた父

 徳田寛は1913年に医師試験に合格。以後、福島県の炭鉱会社の嘱託医をしていたが、1928年、樺太に移住。1935年10月ごろまで同地で医師を務めた。

 その間、長男貢を日大専門部歯科に入学させ、長女栄子、次女秀子も上京、遊学させた。妻はまは以前産婆試験に合格し、夫に従って福島県で産婆を開業していた。栄子は1928年4月に上京。私立小石川高女を卒業後、一時日本女子大と東京女子専門学校に入学したがどちらも中退した。

 寛は樺太の小さな村で開業医をしていたが、経営不振に陥って苦慮。敷香町に日本人絹パルプが設立されると聞いて嘱託医になれば業績が上がると考え、1931年11月、敷香にほとんど全財産を投じて徳田病院を建設。

 しかし、結局嘱託医にはなれず、かえって経営難に。病院を売却し、資金を得て再起を図るしかないと考えたが、買い手が見つからなかった。寛ははまと、病院の建物と医療器具にかけていた火災保険をだまし取ろうと、1934年3月ごろ、同病院の薬局で雇い人ら2人に放火するよう依頼した。