新型コロナウイルスの感染拡大で社会全体が大きく揺れる現代。貧困やドメスティックバイオレンスが社会問題になり、親子間の殺害・虐待事件が報じられることも多い。
多くの家族で稼ぎ手が兵士として出征し、収入が不安定になった戦前の日本でも、同じような問題が起きていた。1935年、現在の価値で1億円以上の保険金をかけた息子を、一家で惨殺する事件が起きた。社会不安を背景に起こったこの事件は、当時の社会に一石を投ずるセンセーショナルなものだった。
社会の混乱に直面したかつての日本。そこには、現代に通じる大きな問題が見え隠れする。ジャーナリスト・小池新の『戦前昭和の猟奇事件』が1冊の本になるのを機に、当該の事件について再公開する。
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<父が主謀、母が殺害、妹が協力…一家で息子を惨殺した日大生保険金殺人事件とは>より続く
毒の量を間違え、注射も失敗…失敗続きの殺害計画
息子・貢のあまりの自堕落ぶりに、これ以上諭しても無益で、到底立ち直る見込みはないといよいよ保険金殺人を実行する決意をした父・寛と母・はま。ここから、寛とはまが共謀した貢殺害計画が実行に移されるが、何回も失敗する。成功を期待するのはおかしいが、ここでも犯行はどこか間が抜けていて笑うに笑えない雰囲気がある。
(1)1935年6月10日ごろ、寛が本郷の薬局で亜ヒ酸25グラム入り1ビンを購入。致死量を指示してはまに渡した。はまは自宅で亜ヒ酸茶さじ1杯を柳川鍋に混入して貢の食膳に出し、貢に食べさせたが、亜ヒ酸が溶けないまま鍋の底に沈殿してしまったため目的を遂げられなかった。
(2)6月20日ごろ、寛は貢殺害をはまに託して樺太へ帰った。7月初めごろ、はまは栄子に保険金殺人計画を立てたいきさつを話して、殺害は一家の災いを除き、他の姉妹らの将来のためだと力説。協力を求めたところ、普段父母に従順な栄子も驚いて思い直すよう求めた。しかしはまの決意が固く到底止められないことを知って計画への参加を決意した。7月初旬ごろ、2人は亜ヒ酸茶さじ半分くらいをコロッケ1個に混入し貢の夕食の膳に供したが、貢が食べなかったため失敗した(のちに「貢はコロッケが嫌いだった」と書いた新聞もあった)。
(3)同年夏、貢は暑中休暇で樺太の徳田病院に帰省。9月12日ごろ、寛は梅毒治療にかこつけて2種類の蒼鉛剤を注射器に入れ、見習看護婦に静脈に注射するよう命じたが、見習看護婦が不審に思って薬局の雇い人に相談したところ、止められたので、尻の筋肉への注射に変えたので殺害に失敗。
(4)帰京した貢から注射のことを聞いたはまは対策を講じるため、9月下旬、樺太へ帰ったが、それに先だって栄子に亜ヒ酸を渡して毒殺を命令。栄子は10月の2回にわたり、自宅で亜ヒ酸を米飯に入れ、貢に食べさせたが、1回目は分量が少なかったため、2回目は分量が多すぎて貢が吐き出したため失敗した。
(5)9月下旬ごろ、徳田病院に帰ったはまは、寛が愛人を病院に引き入れて同棲していたのを責め、愛人を追い出した。10月中旬ごろ、寛に対して、自分が引き受けたのに寛が注射で殺害しようとしたことを責め、逆に寛から殺害が遅れていることを難詰された。はまは「毒薬では目的を達することは困難。出刃包丁で殺害し、強盗に襲われたように装う」と言い出し、寛もはまに一任した。帰京したはまは10月25日ごろ、栄子に協力を求め、計画に基づいて具体的な殺害方法と、殺害後に強盗に襲われたと届け出る時の人相、着衣、年齢などを詳細に打ち合わせた。同月29日ごろ、2人で銀座三越で出刃包丁1丁を購入。研ぎを加えて台所の棚の上に隠し、機会をうかがった。
ここからいよいよ生々しい犯行の場面となる。