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「社会から呪うべき一個の人間を葬り去ることがこの世のためだ」

 逆に悲劇的な色彩で扱われたのは栄子。両親に命令されてやむなく犯行に加担したという視点から人物像が描かれた。取調べ中から「純情な榮(栄)子 “父母を助けてください”」(12月19日付東朝朝刊)、「母や弟妹を 気遣ふ栄子」(12月20日付東日朝刊)などと報じられた。

 年が明けた1936年1月15日付東朝朝刊には「實兄謀殺の心底を截(た)つ 大罪に悶ゆる榮子の懺悔録」という栄子の手記の抜粋が載った。事件担当の野村佐太男検事を通して出たようで、ほかの見出しは「哀切!世に訴へる 肉親愛憎の極致篇」。記者の文章も「母をかばい、父を恨み、兄を呪い、そして不運のわれを嘆く、娘の切々たる告白」とすさまじい。

手記が公表され、栄子は“悲劇のヒロイン”のように(東京朝日)

 その中で栄子は、父は酒好きで女狂いの軽薄・冷酷な人であり、母は、酒乱の夫と離別した祖母が産婆をしながら苦労して育てたと記述。自分はその間に生まれた運命から逃げられないとした。「母から不良の兄を殺す相談を持ち掛けられた時、私は、社会から呪うべき一個の人間を葬り去ることがこの世のためだという考えと、哀れな母を救う一つの道であると思い、何の躊躇もなく兄を殺すことに賛成しました」。

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 家族を苦しめた兄の行状を振り返り、恨んでいる父に対しても「一家のため、ことに何も知らぬ秀子や兀のためと思うだけに、父さんだけは何とかして後に残ってもらいたかった」と述べている。

 記事には、栄子の手記を読んだはまが書いた文章も載っている。「こんなにまでして私を思ってくれた栄子を、ああ、この愚かな母はなぜなぜ娘を大罪の渦中に引き込んだのでしょう。娘がかわいい、いや、かわいそうでなりません」。栄子の手記はこの年に冊子として出版されたほか、「婦人公論」1937年7月号にも掲載されたが、内容は大筋で変わらなかった。

“徹夜組”も登場 傍聴人は早朝から定員を超えた

 殺人と殺人未遂、詐欺の共同正犯で起訴された3人の初公判は、事件から1年半以上たった1937年5月24日、東京刑事地方裁判所で開かれた。

「衂(ちぬ)られた肉親地獄」「眼前子を抉つ(えぐっ)た血刀 娘を真中に鬼畜の夫婦」(東朝)、「肉親愛の喪失 家庭の関心を動員して 裁かるゝ(る)父・母・妹」(東日)、「血に綴る肉親兇劇」(読売)と、5月25日付夕刊各紙の見出しは相変わらず華々しい。

 初公判がこれだけ遅れたのは、はまと栄子が起訴事実を全面的に認めたのに対し、予審段階で「父・寛一切を自白」(1936年1月8日東朝朝刊見出し)とされた寛がその後、共謀の事実や注射による殺人未遂を否認したからだろう。

 初公判でも「父寛又も犯行否認」と読売は見出しを立てた。法廷の模様について同紙は「夜半から雨にもめげず押し寄せた傍聴人は午前7時半、既に定員200人を突破」と記述。

 東日も「事件が事件だけに、傍聴人は前夜から詰め掛け、裁判所は『お定』以来のにぎわいを呈した」「婦人傍聴人は普通家庭のマダムふうの人が多く、この事件に対する家庭の関心がうかがわれる」と報じている。「お定」とは、愛人を絞殺して局部を切り取り、逮捕されて前年11月に初公判が開かれた「阿部定事件」のことだ。