親子に下された判決は…
公判でも寛は否認を続け、同年5月26日の公判では、予審で罪を認めたことについて「警視庁で殴打されたり水をブッかけられて二度も人事不省に陥ったこと、検事にも頭を殴打されたためにめまいがして卒倒するようになり、予審廷でもフラフラ状態で認めさせられたと訴えた」(5月27日付読売朝刊)。
これに対し、はまは犯行は自分一人でやったと栄子をかばった。5月28日には栄子が陳述。傍聴人が殺到し、「“純情の加擔(担)者”榮子立つ」が見出しの29日付東朝夕刊は「前回に比べて若い女性が多いのが目立ち、栄子の母校、小石川高女や日本女子大の生徒がその大部分を占めていた」と書いた。
裁判長の尋問で貢殺害の場面にかかると栄子は「『どうぞお許しくださいまし。とても私の口から申し上げる勇気はございません』。これだけ泣き声で述べると、栄子は身を震わせて泣きむせんでしまい、傍聴席の婦人たちも一斉にハンカチを目に押し当てた」(5月29日付東朝朝刊)。
1937年7月2日の求刑は寛が死刑、はま無期懲役、栄子は懲役8年。その後の公判ではまと栄子は「求刑は軽すぎる」と訴え、寛の弁護人は無罪論などを展開した。7月19日、寛とはまに求刑通り、栄子に懲役6年の判決が下された。
「人倫滅却の犯罪」(7月20日付読売夕刊見出し)、「憎むべきは寛 榮子には情の言葉」(東朝見出し)の内容。3人は控訴したが、既に同月7日には日中全面戦争が始まっていた。戦争報道に押されて控訴審のニュースは扱いが一気に縮小。ほとんどベタ記事になった。
1938年6月18日の控訴審判決を報じた19日付東朝夕刊の記事も3段。寛は無期懲役、はまは懲役15年、栄子は懲役4年と、いずれも刑を減軽された。はまと栄子は刑に服し、寛だけが上告したが、同年12月23日、上告棄却となり刑が確定した。
「こんな人があんな大罪を…」
その後のことは澤地久枝「保険金殺人の母と娘」(「昭和史のおんな」所収)が詳しい。全員仮名になっているが、それによると、寛とはまは1940年の「紀元2600年」の恩赦で減刑された。栄子はその時点で既に仮出所していたようで、その後、結婚したという。
はまは「出獄時期ははっきりしないが(昭和)20年12月8日、敗戦後の疲弊し荒廃した世相の中で寂しく死んだ。数えの56歳であった」(同書)。
寛は獄中にあった時から仏教に帰依し、仮出所後は東京都内の病院で、医者ではなく、患者の世話をする仕事をしていたという。顕本法華宗管長を務めた中川日史「いのちの四季」によれば、獄中の寛と長く文通し、宗教的な交流を続けた。「こんな人があんな大罪をと不審するような、いわば好々爺であるのも嬉しかった」と書いている。しかし、その後、兀と思われる寛の末子から死亡したと連絡を受けた。生前「懺悔録を書きたい」と言っていたが、果たせなかったようだという。