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《証券営業マン誘拐事件》「指だっ!第一関節から切断されている」 取り調べで“愛人”の心を折った“マル暴刑事”のテクニック

『完落ち 警視庁捜査一課「取調室」秘録』より#1

2021/06/30

source : ノンフィクション出版

genre : 社会, 読書

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怪しい男性が女性と来院

 54代目の警視庁捜査一課長である寺尾は異彩を放つ指揮官だった。「ロス疑惑」や「オウム事件」を大峯らと共に手掛け、指揮官としての統率力はピカイチと認められていた。捜査に長けているだけではなく、警視庁首脳部や管理部門、永田町やメディアなどに幅広い人脈を持つ才人だった。大仏のような風貌通りの懐の深さを持ち、その鋭い判断力にも定評があった。

 各病院に確認の電話を入れたところ、小田嶋が姿を消した9月25日以降に、指を切断した患者は100人以上もいることが判った。裏付けを取り絞り込んでいくと、東京・中野総合病院に一人怪しい男性が女性と来院していたという事実が浮上した。

©️iStock.com

 捜査員が病院で診察した医師に話を聞くと、男は「根本明」という保険証を提示したことがわかる。名前が違う。小田嶋の写真を見せても不確かだという。だが、小田嶋の愛人である下川幸子(仮名)の写真を見せると、「この人で間違いない」と医師が認めた。

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 根本明の保険証は偽造だった。病院には愛人とともにタクシーで訪れている。誘拐や監禁された可能性は低くなった。小田嶋は捜査2課の手から逃れようと自ら指を落とし狂言誘拐を仕組んだのだ。診察申込書からも小田嶋の指紋が検出された。捜査本部は「小田嶋の誘拐事件は狂言誘拐」と断定する。

 愛人を自宅で確保した捜査本部は、取調べ官に市原を指名した。小田嶋は愛人の下川と行動を共にしていた。目的は一つ、下川に小田嶋の潜伏場所を吐かせることだった。

何を聞いても無言の愛人

 渋谷署4階の取調室に下川はポツンと座らされていた。

 下川は大きな目と暗い表情が印象的な美しい女性だった。グレーのセーターにスラックスというシックな服装は、25歳という年齢以上の落ち着きを感じさせるものがあった。

 市原はこう切り出した。

――あなたはさっきまで小田嶋と一緒にいたでしょう。どこにいたの?

「………」

――小田嶋が誘拐を装ったことは、もうわかっている。

「………」

 何を聞いても無言だった。

 山形出身の下川はデザイナーを目指して上京し、服飾関係の専門学校に通ったのち、下北沢の「マーマレード」という雑貨店に入社していた。マーマレードは小田嶋が関わっていた会社だった。フランス帰りのデザイナーや、ピアニストと自称していた小田嶋は、「資産が10億ある」「妻とは離婚調停中なんだ」と甘言を囁き、下川に近づいて自分のアシスタント兼愛人にしていた。

 小田嶋は下川に家賃20万円のマンションを提供し、250万円もする外車シトロエンを買い与えた。昼は葉山の豪邸で妻と生活し、夜は“仕事”と偽り下川のマンションに入り浸るという二重生活を、小田嶋は続けていた。