山一抗争、山口組五代目体制発足、山竹戦争、宅見勝若頭暗殺、山口組六代目クーデター、分裂抗争……。
暴力団の数々の事件を第一人者として取材し続けてきた溝口敦氏の新著『喰うか喰われるか』(講談社)が話題を呼んでいる。
ここでは、ノンフィクション作家として日本最大の組織暴力団に真っ向から立ち向かい続けた記録をまとめた同書の一部を抜粋。書籍出版直後に関係者の暴力団員から襲撃された際のエピソードを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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連載終了後に組長から電話で呼び出しが
3月になると「山口組五代」は3月いっぱい、204回まで引き延ばし、すぐその後「竹中武伝」を100回ぐらいの連載でやってくれと桜井局長は言った。私は引き受け、これは武さんを口説き落とさなければならないなと思った。しかし4月になっても「五代」の連載は続き、結局5月6日まで都合233回の長期連載になった。
山口組の反応としては連載中、若頭の宅見勝から二度ほど自宅に電話があった。彼は山口組執行部を押さえきったと思っているのだろう、声は穏やかだった。
「いったい、どういうつもりで書いてるんだ」
「ちょっと私に考えがありましてね。近々直接お会いして説明しますから」
と、私は苦しまぎれに答えた。
宅見と実際に会うことになったら、どうせ渡辺は宅見若頭の傀儡(かいらい)だ、もっとわかりやすく宅見さんがトップになったほうがいいはずです、連載はまあ、そのお手伝いのつもりなんです、とか、いい加減を言ってごまかすつもりだった。だが、その後、宅見から電話がなく、私も宅見に電話しなかった。
宅見からの二度目の電話はこうだった。
「近々東京に出るから、あんたに会って連載の真意を聞こうじゃないか」と言うのだが、これもそれきりになった。彼は若頭だから忙しい体だった。
90年5月に連載を終えてホッとしていると、同月半ば、山口組直系組長の後藤忠政から電話があった。至急会いたいと言うので、私は気が重くなったが、一人で新宿ヒルトンホテルのラウンジに出掛けた。妻には「後藤との話し合いが終わったら電話する。夕方になっても電話がなかったら、警察に届けてくれ」と言い置いた。ラウンジは多くの客が利用している。多くの目があるからと思ったのだが、後藤組の若い衆二人が現れ、
「これから親分のいるところにご案内します」
と車に乗せられた。これはヤバいなと思ったのだが、行きがかりで「車には乗らない」などと言い出せるはずがない。