暴対法によって、社会から徹底的に排除される存在になったヤクザたち。警察庁の調べによると、暴力団構成員数は年々減少の一途をたどっており、令和2年には準構成員と合わせた人数が2万5900人と過去最低の数字を記録している。

 ここでは、そんなヤクザたちを半世紀にわたって取材し続けてきたノンフィクション作家溝口敦氏がこれまでの修羅場を振り返った著書『喰うか喰われるか』(講談社)の一部を抜粋。同氏が考えるヤクザのこれからについて紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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井上邦雄が最後の勝負に出た

 神戸山口組が各方面に送る「御挨拶」文も発表されたが、それにはおおよそ次のようなことが書かれていた。

〈司組長がやっていることは自分さえよければ、直系組長たちがどうなろうと知ったことかという「利己主義」である。彼が「古きを尋ねて新しきを知る」といって、かつての組長の墓参りをしたり、その未亡人を訪ねたりしたところで、田岡、竹中という親分たちを大事にすることにはならない。ほんとに大事にしたいのなら、先輩達に学び、自分の生活を質素に律することだ。組の上に乗って贅沢三昧するのは大間違いだ〉

 神戸山口組に「民主化」の風が吹いていると察せられた。

 では、神戸山口組の分派・独立はいつだれが言い出したのか。最初の計画者と首謀者はやはり神戸山口組組長の井上邦雄(当時は山健組の組長を兼任)と断じていいと思う。

 井上邦雄は衆目の一致するところ優柔不断だった。山口組の髙山清司若頭も早い時期から井上が優柔不断だと見抜いていた。井上に傑出したところがないことは、私の息子を刺し、損害賠償金を支払うハメになったことでもわかる。

 井上邦雄はこれまでに数回も「男になれるチャンス」に出くわしながら、一度として腹を括った行動に出られなかった。相手に逆襲できず、ついに「男」になれなかったのだ。

 五代目組長渡辺芳則が司―髙山ラインにクーデターを仕掛けられ、それを阻止できなかったとき(05年7月)。

 あるいは配下の多三郎一家・後藤一男総長が弘道会批判をやめず、髙山若頭からそれを注意されたとき、胸にしまって握りつぶそうとせず、自派の手で後藤総長を刺殺しなければならなかったとき(07年5月)。

 後藤忠政後藤組組長がゴルフコンペを開催した件で除籍になったことにからみ、山口組直系組長13人が激しく執行部を批判する連判状を作成した際、冒頭の井上邦雄の名を抹消して連判状から脱落したとき(08年10月)。

 など、井上組長が採った行動はすべて御身大事のその場しのぎの保身であり、司―髙山ラインへの服従だった。いずれも抗議の声一つ上げずに弘道会に押し切られた。

©iStock.com

 そういう強い者に巻かれるだけの井上が、なぜ神戸山口組の発足時にかぎり、司―髙山ラインに叛旗を翻し、分派できたか。