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 考えれば不思議な話だが、おそらく井上は六代目山口組にいるかぎり、自分の将来はないと思い知ったからだろう。

 直接的には13年10月、それまでの山口組総本部長・入江禎が舎弟頭に追いやられたとき、井上も司―髙山ラインから若頭補佐を返上して舎弟に直らないか、打診されている。このとき同時に山健組の幹部である健國会・山本國春(神戸市)、姫野組・姫野竜志(大阪市西区)、健竜会・中田広志(神戸市)の3人についても、山口組の直参にならないか、打診があったという。

 いうまでもなく司―髙山ラインによる山健組の分断化、若手直系組長の増加を狙った提案である。

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 だが、井上邦雄以下山健組の4人は誘いを断り、現状維持を選んだと伝えられる。

 井上はこれで悟ったにちがいない。このまま自分が司―髙山ラインによる切り崩し策を受忍しても、やがて自分は引退を迫られ、山健組は司―髙山ラインのために解体・吸収されるばかりだ……と。もはや座して待つことは許されない。男なら立ち上がり、乾坤一擲、分派を立て叛旗を翻すしかない、と。

 しかし、井上の過去に問題があったとしても、ついに改革の旗を掲げ、神戸山口組として独立したことを評価したいと私は思った。

 少なくとも会費などの面で神戸山口組は六代目山口組に比べ改良されたのだ。私は性格的に判官贔屓で、情勢の検討抜きに弱い者に味方しがちである。そのことは自覚している。そのためいままで勝ち馬に乗れたことがない。乗りたいとも思わない。

 このときもそうで、下の人間を収奪して上の人間だけが栄える六代目山口組より神戸山口組のほうが上だ、応援しがいがあると考えていた。

山口組の断末魔を見ているのではないか

 当時は、毛利本部長に電話一本掛けることで取材が可能だった。何度目かの電話取材の後、毛利本部長が、正木年男総本部長が溝口さんに会ってもいいと言っている、と伝えてくれた。そういうことなら、正木総本部長にインタビューしたい、申し込みます、とお願いした。

 2015年9月19日の午後、私は一人で神戸市兵庫区の中央卸売市場に出かけ、近くの寿司屋で総本部長・正木年男、若頭補佐・剣政和を取材した。六代目山口組で「幹部」の役職にあった人たちである。

 両氏の話は、かつて山口組の本部に詰めていた者が司忍組長や髙山清司若頭を名指しで批判し、エピソードを披露する。面白くないはずがなかった。

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 当時、私は山口組の断末魔を見ているのではないかという気がした。多少、断続はあるものの、私はほぼ50年間、山口組を見続けてきた。こうなったらついでのことに山口組の最期を見届けてやろうとさえ思った。

 正木総本部長はヤクザには珍しくペダンチックで、豊かな常識を持っている。しかし、かなりのおしゃべりで言葉は軽く、向き合う者に、この人の話を信じて大丈夫かなと思わせる。