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もはや「生存できず」…半世紀にわたって暴力団を見続けた男が語る“すべてのヤクザ”に突き付けられた“厳しい現実”

『喰うか喰われるか 私の山口組体験』より #2

2021/07/08
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 剣若頭補佐は口数少ないが、ときどき突拍子もないことを言い出す。たとえば、井上邦雄組長は質素な性格で、マスクを洗って再使用する(もちろん新型コロナウイルスが蔓延する前の話)、服はユニクロで買う、などである。話を面白く盛るクセがあるのか。私はこの剣若頭補佐から「男を感じさせる」と持ち上げられたことがある。

 神戸山口組の取材を進めるうち、私は組長の井上邦雄に会ってもいいなと思いはじめた。たしかに息子を刺され、裁判になったが、それで敵同士になることもなかろう。済んだ話なのだ。私はいままで一度も井上に会ったことがない。山健組の幹部には何人も会っていながら、不思議に井上とは未接触なのだ。裁判闘争の過程でも会わなかった。

織田の雄弁

 しかし、そんな能天気な私の希望とは関係なく、2016年7月ごろ、正木年男から電話があった。

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 当時、六代目山口組と神戸山口組との間に和解話が持ち上がっていた。話し合いは6代目側が若頭補佐の一人、高木康男・清水一家総長、神戸側が織田絆誠・若頭代行である。

 両者は和解の落としどころを探ったと伝えられたが、六代目側の幹部・髙野永次(三代目織田組組長、組織委員長)が前に登場した「週刊SPA!」(編集部注:六代目山口組幹部が「週刊SPA!」の記事「『ヤクザジャーナリズムの功罪』」にコメントを寄せるかたちで、筆者の裁判に関する口出しをしてきたことがあった)を使って、話し合いの模様をねじ曲げ、神戸側を貶める内容に改変して公表した。

 正木はこれに我慢できず、私に電話した。

「織田を出すので、和解交渉の実態がどうだったか、話を聞いてもらえないか。六代目山口組の髙野永次は事実を逆に伝えて世間を誤解させようとしている。やることが汚すぎる」

 と、正木は言った。

 正木の言い分をもっともと思った。私が井上邦雄からカネを取ったせいで、神戸山口組側に肩入れしていると貶める同じ記事のなかで、神戸山口組を叩いているのだ。

 そうでなくとも、織田には以前から会いたいと思っていた。織田は神戸山口組が創立された直後から、若頭補佐の一人として六代目山口組に対する示威行動、威嚇行動を全国で展開していた。地方、地方の会合の後に組員を引き連れ、六代目山口組系の組事務所の前を行進、堂々と防犯カメラにも顔をさらし、「ほら見ろ、我々が本物だ。事務所の奴らは出てこられないじゃないか」と現場の士気を盛り上げていた。

 彼のおかげで神戸山口組はそのころ、六代目山口組など問題にもしないほど意気高く、組員増の面でも勝っていたと思う。

 7月12日、神戸市海岸通りの喫茶店で織田をインタビューした。織田と言葉を交わすのはこのときがはじめてだった。

 織田を取り巻くように正木年男、若頭補佐の剣政和が同席していた。

 私はこのとき織田の振るう雄弁に驚いた。理路整然とした話しぶりと、熱の籠もった生真面目な態度。織田の言葉は活字に起こしても、そのまま文章になるほど、しっかりした構造を持っている。

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 活字にする前、記事に目を通してもらわなければならないとして、私は最後、織田から携帯電話の番号を聞いた。

 織田をインタビューした後、「週刊現代」(16年8月20・27日合併号)に〈神戸山口組「戦闘隊長」織田絆誠・若頭代行がついに実名で語る「六代目vs.神戸 分裂の真相とこれから起きること」〉を見開き4ページのスペースで書き、公表した。

 その後も神戸山口組は順調に推移しているようだった。六代目山口組は執れる手が限られ、しきりにデマを流し、神戸山口組の足を引っ張ることぐらいしかできなかった。

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