つまり、シンパシーは内より湧き出る「感情」で、エンパシーは身につける「能力」。シンパシーが向けられる対象は「かわいそうな人か自分と同じ考えの人だけ」ですが、エンパシーは「自分と考えの違う人こそ理解しよう」という能力です。日本ではエンパシーがシンパシーと同じく「共感」と訳されてしまったために、本来の意味が伝わらず、言葉自体も浸透していかなかったのでしょう。
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「感情労働」とエンパシーの搾取
昨年亡くなった人類学者のデヴィッド・グレーバーは、社会から無くなっても誰も困らない仕事を「ブルシット・ジョブ」(「クソどうでもいい仕事」と日本語訳されています)と呼びました。管理職、人事、広報、秘書など、ホワイトカラーのデスクワークがそれに当たります。逆に、休まれては社会が困る仕事を「ケア階級」と呼びました。それは看護、介護や教育に携わる仕事だからです。
実際、コロナ禍においては、前者が在宅勤務をしても社会は回っていきましたが、後者は感染のリスクにさらされながらも人々のために働くことを余儀なくされ、エッセンシャルワーカーと呼ばれました。
私もかつて保育士の端くれでしたからわかるのですが、ケア階級の人はコロナのような非常時でなくても、ケアする相手に対し、「何をしてほしいのだろう」「どうしたら喜んでもらえるのだろう」と考えながら仕事をしています。自分の感情を抑えて相手の満足度を上げようとする「感情労働」です。そのため、他の人よりもエンパシーが育ちます。
すると、上司や雇い主ばかりか、政府の事情なども考えるようになり、「あちらも辛いのだから、私も頑張ろう」と、どんな理不尽な要求にも自分を抑えて従うようになってしまうのです。為政者はこうして発生したエンパシーを利用します。自分に対するエンパシーを搾取するのです。