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今年で55年目の“地元の中華屋”

 奇をてらったところはなく、いかにも地元の中華屋という感じだ。しかし、それは当然なのだ。なぜならこの店、先ごろ59歳になったばかりの私が小学生のころから営業しているのだから。週末のお昼、父親に連れられてよく訪れていた店なのである。

 ただし、そのころは別の場所にあった。マスコミにもよく登場する「教会通り」という商店街のどまんなかで、昭和41年から営業を続けていたのだ。

 
 

「それ以前はうちの親父たちが北千住で13年やって、それからこっちへ来て。ちょうど私が10歳のときだから、今年で55年。数えるのもきりがいいから覚えてるんです」

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 そう語ってくださったのは、店主の佐京重男(さきょうしげお)さん。今年で65歳だそうだが、もっと若々しく見える。驚くべきは、高校2年生だった16歳のときから、学校に通いつつお店でも働いていたという事実。だから古いお客さんのこともよく覚えており、なんと小学生時代の私のことも知っていてくださった。当時の私は子どもだったから、話したこともなかったし、そもそも厨房の向こうにいる人と話す機会はなかった。だから、知られているなんて考えたことすらなかったのに。

とても華やかだった「教会通り時代」

 ただし、教会通りにあったころの店舗がとても華やかだったことは記憶に残っている。奥まで続く店内は広く、左側の厨房には何人もの職人がいて(つまり、そのなかのひとりが重男さんだったことになる)、フロア担当の若い女性も数人おり、常に活気があったのだ。

「広かったですね。カウンターがあって、テーブル席と小上がりと、全部で50人入れたんですよ。うち、きょうだいが姉と妹2人なんですけど。全員が一度は店に入ってくれてますね。その他にパートさんもいたし。調理場のほうも一番忙しいときで、出前さんが3人いました。コックさん2人と、私と親父とかだから、従業員でも7、8人はいて、教会通りの雀荘に出前したりしてましたから。あと、あのころはアパートが多くて、出前に行くとキャバレーのおねえさんがシュミーズ1枚で出てきてね、『部屋まで持ってきて』なんて言われて(笑)」

 あー、わかるわかる。たしかにあのころの教会通りは、いまみたいに洗練されてなかったなー。

 
 

 それはともかく、先ほど注文を取りに来てくださった奥様の玉恵さんとも、教会通りの店舗近くにあった喫茶店で知り合ったのだという(関係ない話だが、私は高校生のころ、その喫茶店でアルバイトしたことがある)。当時、高井戸の社会保険庁で働いていた玉恵さんが日曜日にお茶を飲んでいるとき、休憩時間に訪れていた重男さんと顔見知りになったのだ。そして、昭和55年に結婚。なんだか昭和のドラマになりそうな、ちょっといい話。

「あのころはバッタバタしてましたね、世の中がね。いまはもう、教会通りだって古いお店はほとんどないですもんね。町が変わっちゃってね」

 そう、だから気になっていたのだ。なぜ、華やかだった光陽楼が教会通りから姿を消してしまったのかと。