NPB史上初にしていまだ破られていない三度の三冠王獲得といった偉業を成し遂げ、“天才”と評される落合博満氏。そんな彼のプロ入りは25歳と意外にも遅咲きだ。高校卒業からロッテ・オリオンズ入団までの間、いったいどのような日々を過ごしていたのだろう。

 ここでは、詩人・作家のねじめ正一氏による『落合博満論』(集英社新書)の一部を抜粋。落合氏の人間味あふれるエピソードを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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誰もが認める野球能力

 生来の性格から落合は、封建的な体育会系の上下関係に馴染めず、秋田工業高校野球部時代は「7回入部8回退部」と、入退部を繰り返している。とはいえ、一度も退部届は書いておらず、常に休部状態のままであった。それが許されたのは、落合の野球能力が、誰もが認めるものだったからだ。

プロ入り後の落合博満氏 ©文藝春秋

 落合は大の映画好きで、映画館に入り浸っていた。試合が近づくたびに部員が映画館まで呼び戻しに来て、その都度、野球部に復帰し、たった一週間の練習で四番を打った。そして、本塁打を量産した。

 上京し、セレクションで合格して入った東洋大学の野球部もやっぱり封建的なところだった。ケガも重なって、兄姉たちの後押しでせっかく入学した大学を半年で中退した。

プロボウラーを目指すも、交通違反の罰金で受験できず

 だからといって、落合家で彼を責める人は誰もいなかったという。

 大学野球で挫折し、東京から秋田に戻った落合は、新たな生きる道を考えなければならなかった。ボウリング場でバイトをしながら、プロボウラーを目指したという。

 ところが、それが好運だったのか不運だったのか、交通違反の罰金でプロボウラー試験の受験料を失い、受験できなかった。アベレージスコアは286だったというから、プロボウラーとしても成功していたかもしれない。