お金を集めて年に4、5回、どこかへみんなで遊びに行ったり、新年会や忘年会をやったりしていたらしい。若い落合もペイペイを楽しんでいた。落合の人間味が知れる話である。
落合が羽ばたいた年
1974年10月14日、長嶋茂雄の引退試合があった。
「長嶋茂雄さんに憧れて野球を始めた私は、1974年10月14日に後楽園球場に足を運び、長嶋さんの引退試合を観戦した。その時、長嶋さんとともに日本のプロ野球も終わってしまうのではないかと、本気で思っていた」(『野球人』ベースボールマガジン社、1998年)と、落合は書いている。
落合の生まれた若美町(現・男鹿市)は、秋田でも野球の盛んなところだ。落合は小さな頃から野球がうまくて、ふてぶてしさ、愛想のなさもその頃からすでに発揮されていた。試合の始まる寸前にすたすた現れて、試合が終わると、後片付けをするわけでもなくすたすた帰っていったという。それでも、小学校でも中学でも、お愛想なしのピッチャーで四番であった。
小さな頃からの憧れ、長嶋茂雄
そんな落合の小さな頃からの憧れが、長嶋茂雄だったのだ。モノマネも上手だったらしい。
長嶋がいなくなったら日本のプロ野球は終わりだ、そう思ったのは当時、落合だけではなく、日本の多くの人がそうだった。
詩人の寺山修司は長嶋の引退試合で「僕の青春が終わった」と言った。
でも、落合は長嶋茂雄に間に合った。
東芝府中で野球をやっと手に入れた。ギリギリのギリギリのところで、野球を引き寄せた。野球をやっとこさ摑まえた落合は、長嶋の引退試合に足を運んだ。日本プロ野球の行く末を憂いながら、落合自身も野球のとば口に立つことができたのだ。
「アクがないというか、人を引きつける一種独特の魅力があるんだね。なんなのだろう? 人間性かな? いや、やっぱりあの人の野球だと思う」(『なんと言われようとオレ流さ』講談社、1986年)
落合の長嶋についての言葉だ。