いまや押しも押されもせぬ人気芸人として、お茶の間に笑いを届け続ける明石家さんま氏。しかし、『オレたちひょうきん族』でプロデューサーを務めていた横澤彪氏によると、大阪時代の彼の評価は「非常に低かった」という。では、いったいどのようにして支持を集めたのだろうか。
ここでは明石家さんま研究家のエムカク氏の著書『明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ』(新潮社)の一部を抜粋。関係者の証言を交えながら飛躍のきっかけを振り返る。(全2回の1回目/後編を読む)
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“漫談”から“雑談”へ―“笑わせ屋”として
さんまは、テレビやラジオの仕事でどんなに忙しくなろうとも、毎年200日以上、吉本興業が運営する花月劇場(なんば花月、うめだ花月、京都花月)の舞台に出演する努力を続けていた。吉本興業がダブルブッキングをしてしまったときなどは、仕方なしに仲間の芸人に代演を頼むこともあったが、できる限り舞台に立ち、漫談を披露していた。そして花月の楽屋に集う芸人仲間やスタッフたちといつも雑談を繰り広げ、率先して楽屋を盛り上げていた。
「さんまは劇場よりも楽屋のほうが面白い」
芸人仲間の誰もがそう思っており、さんま自身も漫談ネタを演っているときよりも、楽屋で思うがままにしゃべっているときのほうが大きな笑いがとれることはわかっていた。
そしてさんまは、“雑談”の可能性について深く考えるようになる。月曜日に移った『ヤングタウン』では、共演者のあさみあきお、堀江美都子と楽屋で話しているような感じで、内輪ネタを織り込みながら自由にトークを展開させ、試行錯誤を重ねていく。
さんま「うちの師匠(笑福亭松之助)が、『さんま、雑談を芸に出来たらすごいぞ』と口癖のようにおっしゃってて、オレはいつかそれをやってやろうと思い続けてたんですね。“内輪ネタ”も意識的に、積極的に扱いました。(中略)リスナーにとってはほんとどうでもいい話を延々して、力づくで笑わせることによって、リスナーも“内輪”に取り込もうとしたわけです」(「クイックジャパン」Vol.63)