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「大阪での評価は非常に低かったんです」  “芸なし”と評された明石家さんまが一躍人気を集めるようになった“意外な助言”

『明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ』より #1

2021/07/29
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自らのスキャンダルもすかさずネタに

 週刊誌「女性自身」(1982年5月25日号)で、Kとのスキャンダル記事の続報記事(見出しは「明石家さんま愛人問題で苦境に! タケちゃんマン助けてェ~」)が掲載された際には、すかさず漫談ネタの中に取り込んだ。

「もう、何が辛いて、週刊誌っていうのはねぇ、まず電車の中吊りになるんですよね。あれがたまらん。何気なしに電車に乗ってまして、ほっと見たら大きな太い字で、“さんま泥沼”と書いてあるんですよ。“愛人問題慰謝料1000万”感嘆符がボーン! ここまではまだ我慢できるんですけども、その横に小さい字で、“タケちゃんマン助けて”て、どついたろかアホんだらぁと思うんですよね。人の不幸をああしてペンで遊びよるんです。

 その次に載ったんがですねぇ、『女性セブン』だ。“さんま、外人モデルにプロポーズ”、その次が『微笑』。“さんま、おすぎと同棲か?”……人をなんでもこいみたいに書きやがってですねぇ、もうたまらん。

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 うちの親なんか奈良の田舎もんやから、“どないなっとんねん?”言うて、すぐに電話かかってきますからねぇ、親のために載らんとこうと思って、2か月間、まっすぐマンションに帰って、どこにも遊びに行かなかった。どっかへ遊びに行ったら、なんか書きよるからですねぇ、2か月じーっとして、もうこれで週刊誌に載らない思て、安心した矢先だ。

 女性誌をパッとめくったら、私の顔写真がボーンあって、“あれ? 俺、なにしたんかな?”思たら、“こんなに働いて貯金ゼロ!”って、ほっとけっちゅうねん!」

 さんまは、たしかな手応えを感じていた。

 劇場で漫談をするときは、スーツやタキシードを着るのをやめて私服のまま出演し、ラジオに出演するときには、己のすべてをさらけ出すことで、リスナーとの距離を縮めていった。

 吉本興業東京事務所の社員(当時)である大﨑洋は、1枚のはがきをネタに1時間近くしゃべりまくり、面識のないリスナーと延々と楽しく会話できるさんまの姿を間近で見て、「これこそがさんまの芸。新しい芸だ」と感じていた。

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「2年前のネタでも、昨日のことのようにしゃべりますもんね」

上岡龍太郎「そのうち、さんまちゃんとか鶴瓶ちゃんといった素人話芸の達人が出てきだした。あれはうまいもんです。2年前のネタでも、昨日のことのようにしゃべりますもんね。ぼくらやとね、無駄な言葉を省いて、わかりやすい表現で伝える工夫をしてしまうんです。

『春まだ浅き早春の、まだ風は寒いころでしたが』

 とぼくやったら、詰まらずに言おうとするところを、鶴瓶ちゃんは、

『あのう、あれですわ、あの、おとついとちゃう、3日前ですわ。ほれっ、あのー』

 てな調子で言うと、ものすごくリアルなんですよね。ぼくらが、きちーんとしゃべってしまうと、かえって信用がなくなるんです。聞いてる人も『うっそお』と言うて感動を与えないんです。

 さんまちゃんでも、昔、ぼくと『ポップ対歌謡曲』という番組でやってたころのネタを今だにやってるんです。けど、リアルなんですよ。それこそ、マンションのドアを女がたたいてたというのを、昨日か一昨日のことみたいにしゃべりますもんね。あれは一種のラジオやテレビの素人芸というか、リアリティ芸なんでしょうね。