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「朝、いつも芸能界やめようと思うのよ」やっとの思いでTVに出続けていた明石家さんまが固めた“覚悟”とは

『明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ』より #2

2021/07/29
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伝説の「テレフォンショッキング」

 1984年6月22日、『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングのゲストとして、作家の有吉佐和子が、池田満寿夫デザインの煌びやかな着物に身を包み、登場した。司会のタモリは、前日、俳優の有島一郎から紹介され、電話口に出た有吉から、「あなたのそのシャツと蝶ネクタイ、3流のホテルのボーイみたいで似合わないわよ。おやめになって」と指摘されたことを受け、正装で有吉を迎える。

 澟とした有吉に、懐深く対応するタモリ。コーナーは滞りなく進行していくが、有吉が翌日のゲスト、橋本治を紹介した後から、様子が変わる。

「あなたの先祖には有名な国学者がいるの。あなたに文学的な素養があるのはその末裔だからじゃないかしら。あなた、作詞をしているでしょ?」

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 有吉はそう告げると、持参していたラジカセを取り出し、タモリが作詞した早稲田大学の応援歌「ザ・チャンス」をかけて、タモリと唄い始めた。

©iStock.com

 キリのいいところでタモリは有吉を送り出すため、「ありがとうございました!」と、拍手を促したその瞬間、次のコーナーに登場するさんまが飛び入り参加し、客席から大歓声があがる。タモリはすかさず、着ていたジャケットを脱ぎ、さんまの肩にかけた。するとさんまは『オレたちひょうきん族』の「タケちゃんマン」のコーナーで、ビートたけしとの掛け合いから誕生したギャグ「帰ってよ!」(甘えん坊で短気な“ややこしい女”になりきり、布団の中から「帰ってよ!」と男に言い放つ)を披露し、スタジオは大爆笑。さんまはすぐに退場する。

 この時点で、テレフォンショッキングのコーナーは35分が経過していた。当時の歴代最長時間は、同年3月14日に黒柳徹子が記録した43分。「テレフォンショッキングのコーナーは、おもしろく転がりそうならば、後のコーナーを潰してでもそのまま続ける」。タモリとスタッフの意向は一致していた。

関根勤「テレフォンショッキングで、黒柳さんと、有吉佐和子さんが長々としゃべりましたよねぇ。あのとき、タモリさんはどういう気持ちで話してるんですか?」