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「朝、いつも芸能界やめようと思うのよ」やっとの思いでTVに出続けていた明石家さんまが固めた“覚悟”とは

『明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ』より #2

2021/07/29
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「なにがなんだかわからない時代でしたね」

 1984年8月24日、さんまは、うめだ花月で上演された舞台『ラジオが泣いた夜 放送されない公開生放送』に出演。うめだ花月の舞台を“ラジオ放送局”に見立て、架空のラジオ番組が放送される様子を出演者がすべてアドリブで演じ上げていく。ラジオパーソナリティ役として吉本興業の芸人が次々と登場し、フジテレビのディレクター、三宅恵介、山縣慎司、小林豊、佐藤義和、KBS京都のディレクター、岩崎小泉らをゲストに迎え、アドリブトークを繰り広げていった。

 さんまは、島田紳助、斉藤ゆう子と共に出演。レギュラー番組である『笑っていいとも!』『花の駐在さん』を遅刻した話や、さんまの祖父・音一の話、恋愛エピソードなどを包み隠さず披露し、紳助との雑談を楽しんだ。

さんま「『笑っていいとも!』なんかは、“なんで遅刻したんだ?”っていう、遅刻の言い訳がひとつの名物になってましたからね。“246の交差点で地底人とバッタリ会うてしまって”とか、そんなこと言ってましたねぇ。“火災が起きたビルから子供を助けてました”とか。今は芸能人で遅刻するイメージの人がいないね。昔は、たけしさんなんか、『オレたちひょうきん族』をよく休んだりしてましたからね。俺は遅刻は多かったなぁ。低血圧やし、忙しかったし、なにがなんだかわからない時代でしたね、あの頃は」(『MBSヤングタウン』2008年4月12日)

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大﨑洋「担当していた劇場でも、それまでやったことがなかった新しい挑戦をスタートさせている。うめだ花月で上演した『ラジオが泣いた夜』という舞台もそのひとつ。タイトルは好きだった片岡義男さんの小説から取ったもので、直接、片岡さんに電話を入れて使用の許可を取ったりもした。

 舞台はラジオ局の設定で、出演したのはさんまやのりお。それまでのカッチリとした台本がある舞台ではなく、アドリブや脱線はもちろん、舞台上で起きるハプニングも含めて全部見せてしまおうというコンセプトだ。今ではありふれた手法だが、大げさに言えば当時の花月で上演されていた『演芸』のスタイルを崩してやろうと企んでいた」(『笑う奴ほどよく眠る 吉本興業社長・大﨑洋物語』)

【前編を読む】「大阪での評価は非常に低かったんです」  “芸なし”と評された明石家さんまが一躍人気を集めるようになった“意外な助言”

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