ドラフトで4球団競合の末、読売巨人軍に入団した原辰徳は、プロ入り1年目から新人王を獲得するなど期待にたがわぬ活躍を見せる。一方で、王や長嶋の幻影を追う一部のメディア・ファンからの徹底的なバッシングにあうことも珍しくなく、優秀な成績を残しながらも、巨人不振の全責任を背負わされているかのような扱いを受けてきた。

 ブログ「プロ野球死亡遊戯」で人気を集め、さまざまなメディアで野球の魅力を説くスポーツライターの中溝康隆氏は少年時代、そんな“不完全なアイドル性”を持つ原辰徳に魅せられていたという。ここでは同氏の著書『現役引退 プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)の一部を抜粋。高度経済成長期の象徴ともいえる天下のONと常に比較され続けた男の最後の1年を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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巨人史上最低の4番

 シーズン34本塁打、94打点の27歳の若き4番打者。

 プロ野球界にはこの好成績を残して、マスコミから「優勝を逃した戦犯」「巨人史上最低の4番」と叩かれまくった選手がいる。80年代中盤の原辰徳である。

©文藝春秋

 甲子園のアイドルで大学球界のスーパースターという輝かしい経歴を持ち、1980(昭和55)年ドラフト1位で巨人の藤田元司監督が4球団競合の果てに抽選で引き当てた。ドラフト会議直後になんと街で号外が配られ、ミスター監督辞任で6円安、王引退で5円安を記録した後楽園の株価が、原を引き当てた日には始め値の366円から19円高の385円まで跳ね上がるタツノリフィーバーが幕を開ける。長嶋茂雄と王貞治の後継者を託され、巨人入りした22歳のプロ生活は順風満帆だった。81年は1年目から新人王を獲得し、チームも日本一。2年目は富士重工、味の素、オンワード樫山、美津濃、明治製菓、明治乳業、大正製薬といった大手企業のCMに出まくり、アルバム『サムシング』でレコードデビューも飾った。スポーツ選手の前年度所得番付で1 位青木功(ゴルフ)と3位千代の富士(相撲)に挟まれ、球界トップの2位にランクイン。江川卓とともに投打の柱“ETコンビ”と呼ばれ、83年には打率.302、32本塁打、103打点で打点王と最多勝利打点に加え、MVPを受賞。エイトマンスマイルをふりまく時代の寵児は、ゴールデンタイムで毎晩視聴率20パーセント超えの巨人戦ナイター中継の主役として君臨する。あの頃、日本のどんな有名芸能人より頻繁にテレビに登場した前代未聞の野球選手が若き日の原だった。