圧倒的な打撃力で来日1年目から大活躍し、巨人史上最強の助っ人として親しまれたウォーレン・クロマティ氏。1989年にはリーグのMVPにも輝き、ファンからの人気も高かった同選手が読売巨人軍を去った最後の1年、彼はどのような思いで過ごしていたのだろう。
ここでは、独自の視点で野球に関する執筆活動を行うライター中溝康隆氏の著書『現役引退 プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)の一部を抜粋。実力・人気を兼ね備えた助っ人外国人の晩年について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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原辰徳に代わり第50代4番打者に
「まぁ負けた時は監督が悪いんだよ。選手はみんなよくやってんだからさ」
親分は、べらんめえ口調のあの名調子でそう言った。1981(昭和56)年秋、両球団が同じ本拠地を使用することから“後楽園シリーズ”と呼ばれた巨人との日本シリーズ第4戦。相手先発の江川卓に2点に抑え込まれ、試合後に敗戦を振り返る日本ハムの大沢啓二監督は、テレビカメラの前で記者に囲まれ、なんとタバコをふかしながらコメントしていた。
えっ、刑事ドラマの取調室? なんて一瞬錯覚しそうになるド迫力シーンだが、そう言えば日本球界のヘビースモーカーぶりにカルチャーショックを受けていたのが、来日直後のウォーレン・クロマティである。
MLBのエクスポズで通算1063安打を放った現役バリバリの大リーガーは、84年に3年180万ドル(約4億2480万円)の大型契約で王貞治新監督率いる巨人へ入団。30歳とまだ若く、1年目からチーム最多の35本塁打を放った背番号49は、2年目の85年も打率.309、32本塁打、112打点の好成績で、原辰徳に代わり第50代4番打者を託された。シーズン末の骨折で無断帰国をかまして罰金100万円を科せられるオチはついたが、愛息に“コーディ・オー・クロマティ”と名付けるほど、ボスとの関係も良好だった。
王巨人の救世主と称される
スタンドへのバンザイコール、拳を突き上げる派手なガッツポーズ、左打席での極端なクラウチングスタイルの構えに勇気づけられ、少年たちはファンタグレープ片手に放課後の校庭で真似したものだ。
3年契約最終年の86年シーズンは打率.363、37本塁打、98打点、OPS1.095。勝利打点18という無類の勝負強さを発揮。ランディ・バース(阪神)の2年連続三冠王で打撃タイトルの獲得こそならなかったが、クロマティは王巨人の救世主と称された。
10月2日、頭部死球を受けた翌日に入院先の慶応病院から神宮球場のヤクルト戦へ直行し、3対3で迎えた6回表二死満塁の場面、緊急代打でバックスクリーンに満塁ホームランを叩き込んだシーンは今でも語り草だ。「週刊ベースボール」86年9月22日号と10月20日号表紙には、「神様、仏様、クロウ様……G党はあなたを支持します」「クロウ、君こそ巨人の誇りだ」という見出しが躍っている。