「オレの年俸をかなり減らそうとしたので」
ストーブリーグの巨人とクロウの交渉の行方が注目されたが、12月に巨人は新外国人選手のフィル・ブラッドリー獲得を発表。クロウはロイヤルズでの大リーグ復帰を選択する。「週刊ポスト」91年3月22日号の直撃には「ま、今後は、2年前に設立したプロダクションで、ユーミンの曲をプロデュースしたいと思ってるんだよ」なんて謎のプランを披露する一方で、「巨人はオレの年俸をかなり減らそうとしたので、辞める決心をしたのさ」と恨み節。
翌91年、雑誌「宝石」8月号に掲載された梅田香子によるインタビューでは、「去年の11月。国際電話で通訳のヒラノが年俸ダウンならもう1年契約してもいい、と言ってきた。信じられるかい? こんなに巨人のためにやってきたのに、オレのことをヤツらは侮辱した。悲しかったよ」と、年俸ダウンを不服としての退団だったことを明かした。つまり、条件次第では91年も巨人8年目のシーズンを迎える意志はあったということだ。
スーパースターの日本時代は230万ドルだった年俸も、ロイヤルズでは出来高含め30万ドルほど。ときに慣れない一塁を守りながら代打中心の起用で3割を超える打率を残したが、91年シーズン中に現役引退を表明した。
エンドロール後のエピローグのようなシーズン
91年開幕前発売の名著『さらばサムライ野球』(ウォーレン・クロマティ/ロバート・ホワイティング、翻訳・松井みどり、講談社)では、日米文化論からチームメイトの素顔まで書き尽くしているが、現役最後の90年シーズンのプレー描写だけは、尊敬する王さんに電話で臨時打撃コーチを依頼したが、今度ばかりは功を奏さなかった……と異様に短い扱いであっさり終えている。まるでエピローグのような扱いだ。
そう、クロウにとって巨人7年目の90年は、エンドロール後のエピローグのようなシーズンだった。ある意味、MVPと日本一のすべてを成し遂げた89年に、栄光のストーリーの本編はすでに終わっていたのだ。
NPB7年間で通算打率.321、951安打、171本塁打、558打点。クロウと決別した巨人は、その後しばらく苦労することになる。なにせ退団から30年経った今も、クロマティ以上の人気と実力を持つ自前の外国人野手はひとりも現れていないのだから――。
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