「今年で引退してミュージシャンになる」と宣言
だが、開幕前に「今年で引退してミュージシャンになる」と宣言した翌87年は一転、中日戦で乱闘騒ぎを起こし、西武との日本シリーズでセンターを守った際にシングルヒットで一塁走者の生還を許すなど“怠慢プレー”と叩かれてしまう。
88年6月13日には甲子園の阪神戦で左手に死球を受け親指骨折で離脱して、代役の呂明賜が大活躍すると、クロウ不要論も一部では報道される。同時期に、趣味の音楽ではロックバンド「クライム」でドラムを担当し、『夜のヒットスタジオ』でご機嫌な演奏を披露、アルバム『テイク・ア・チャンス』でCDデビューもした。いやドラムを叩くって手の骨折箇所にめっちゃ悪い気が……じゃなくて、自宅にスタジオを作るのに数千万円を投じたものの、売上げは約3万枚で印税は150万円程度だったという。
この頃、『とんねるずのみなさんのおかげです』では学園コントにも挑戦しているが、それも“ジャイアンツのクロウ”という看板があってこそ。もっと音楽活動をやりたいし、離婚の慰謝料も馬鹿にならない。やっぱり日本で稼ぐならオレには野球しかないネ。平成に突入した89年、年俸150万ドルで残留した男は凄まじい快進撃を見せる。長打狙いから確実性重視の打撃スタイルにモデルチェンジ。序盤から安打を量産し、5月下旬の時点で打率.470を超えるハイアベレージを記録。8月20日の96試合終了時に打率4割台を維持したまま、130試合制の年間規定打席403に到達し、この後の試合を休めばプロ野球初の4割打者が誕生していたことになる。最終的には打率.378で初の首位打者を獲得、MVPにも選ばれ、チームは8年ぶりの日本一に輝いた。
引退パフォーマンスにマスコミも呆れ気味
まさにキャリアの絶頂を迎えた最強助っ人。だが、36歳のクロマティは翌年、日本での「最後の1年」を迎えることになる。来日7年目の90年シーズン、例年通りキャンプ終盤にチームに合流したクロウは、ホテルの自室に大量のCDやカセットを持ち込み、レンタルビデオでリラックス。藤田元司監督の許可を得て、マイペース調整を続ける。
数年前からの恒例「今シーズン限りで野球は終わらせて、ミュージシャンになる」宣言は相変わらずで、毎度お騒がせの引退パフォーマンスとマスコミも呆れ気味。実際は年俸230万ドル(当時のレートで約3億3000万円)まではね上がり、キリンラガービールのテレビCM出演や、ファミコンソフト『スーパーリアルベースボール』のイメージキャラクターにも起用されるニッポンのスーパースターの座を捨てるわけがないと見られていた。
しかし、背番号49は開幕から想定外の打撃不振に襲われる。4月は打率2割台前半に低迷。前年の序盤は4番原が絶好調でマークが分散したが、その原が開幕戦で故障離脱してしまい、相手バッテリーからクロウは歩かせてもいいと勝負を避けられ、それにイラついてボール球に手を出しバッティングを崩す悪循環。