ケガで初の一軍登録抹消、結婚で女性ファン激減
当然、そんな異常なアイドル人気を誇る若大将を面白く思わない人たちも出てくる。主に巨人V9をリアルタイムで目撃し、現役時代のONに熱中した中年のおじさんたちである。彼らがメイン読者層の週刊誌では、徹底的に原叩きを繰り返す日々。つまり、チャラチャラした「最近の若者の象徴」4番原を叩けば雑誌が売れたわけだ。「週刊現代」86年9月6日号では、「打てば負け打たねば勝つチームの“貧乏神”巨人史上最低4番打者・原辰徳にファンベンチ罵声」の見出しで「“4番目の打者”原辰徳がいつ“4番打者”になってくれるのかと。巨人には記憶の人=N、記録の人=Oがいます。現状では、原クンは“記憶にも記録にも残らない人”ですもの」とまで辛辣に書かれている。比較対象は常に過去の偉大なノスタルジー。もはや転職して去った敏腕営業マンの残像を追う部長の若手社員イジメのような、むちゃくちゃな要求だ。並の精神力と覚悟なら、やってられるかと投げ出して野球を辞めていると思う。
気が付けば、巨人不振の全責任を背負わされ、追い打ちをかけるようにプロ6年目の86年シーズン終盤、自己最多の36号アーチを放った広島戦の9回裏二死1塁、炎のストッパー津田恒実の剛速球をファウルした直後に古傷の左手首に激痛が走り退場。左手有鉤骨骨折で初の一軍登録抹消をされてしまう。バットを振れるようになるまで3カ月以上を要する重症で不要論が囁かれ、王貞治監督からは厳しい檄が飛び、さらに電撃結婚で女性ファンも激減。オフにはロッテの三冠王・落合博満の巨人トレード話が連日報じられ、球界の主役の座は高卒新人記録の31本塁打を放った“新人類”清原和博に奪われた。まだ28歳にして半端ない窓際感。そんな逆風にさらされる悲運の4番サード原辰徳に熱狂したのが、ONの現役時代をリアルタイムで知らない当時の少年ファンである。
終わらない歌を鳴り響かせるホームランアーティスト
周りの大人たちが「またチャンスでポップフライかよ」とディスる背番号8に対し、まるで自分が馬鹿にされたかのような悔しさを覚え、「俺たちがタツノリを応援しないでどうするんだ」なんてわけの分からない使命感に後押しされ、テレビの前で絶叫。悔しさと蒲焼さん太郎を噛みしめながら、リモコン片手に半泣き。すると、不思議なことに原は89年日本シリーズ第5戦での起死回生の満塁弾、92年神宮球場での怒りのバット投げアーチと度々土壇場で劇的な一発を放つ。30代になると左翼コンバートに加え、アキレス腱痛を抱えて故障も増えたが、もう終わったと言われる度に、終わらない歌を鳴り響かせるホームランアーティスト。あの頃のタツノリにはある種の儚さと切なさがあった。完全が求められる巨人4番において、その不完全なアイドル性に少年ファンは魅せられたのである。
だが、長嶋茂雄が監督復帰した93年に背番号8の入団以来12年連続の20本塁打が途切れ、巨人はゴールデンルーキー松井秀喜の「4番1000日計画」と、導入されたばかりのFA大型補強時代へと突入していく。そして、落合博満のFA移籍で4番の座を追われた原は、1995(平成7)年に「最後の1年」を迎えることになるわけだ。