大澤真幸さんがその成立を高く評価する武士初めての成文法、鎌倉幕府の『御成敗式目』は、当時の道理に従って制定された、とよくいわれる。だが「当時の道理」にはベクトルの違うものも含めて複数が存在していて、幕府はその中から自らがよしとする理念を選別し、文章化した。だから『御成敗式目』は明らかに、幕府が主体的・能動的に作り上げた法とみなすべきだ。中世法の権威である笠松宏至先生(東京大学名誉教授)はそう指摘する。
時の流れの中で天皇の本質を探る本書を読んだときに、私はこの『御成敗式目』論を想起した。本書が論理の素材として用いる歴史事象は、「ただそこにある」わけでは決してない。すぐれた論理の体系を一点の綻びもなく積み上げるために、大澤さんが丁寧に選び出し、ときに解釈し直したものなのである。
一例を挙げよう。歴史的な天皇を考察するときに、高名な法制史家、石井良助先生の「天皇は親政せず」という原理がまず掲げられ、そこから討論が進展していく。だが、石井先生のお仕事は1950年代初めのもので、歴史学の立場からすると個別の、しかし確実性の高い史実からの批判があり得るように思う。私が専攻する鎌倉時代、天皇は上皇として、統治を深化させようと懸命に努めていた。上皇は天皇ではないだろう、という批判は容易に成立するが、上皇の本質は天皇権力だという分析が有効であるならば、平安時代後半に摂関の軛(くびき)から脱した天皇は南北朝時代に足利将軍家の掣肘(せいちゅう)を受けるまで、疑いようもなく政治に意欲的に向き合っていた。とすれば、石井先生の研究は、このあとのお二人の議論が効果的であるために、より具体的にいうならば「シニフィエ(意味)なきシニフィアン(記号)」としての天皇像にたどり着くため、慎重に用意されていると見るべきだ。
卓越した社会学者である大澤さんは、論理を以て天皇の本質を見通し、そこに歴史事象をあてはめて補強していく。一方、新進気鋭の法学者である木村草太さんは緻密な憲法理解をもとに近・現代社会を分析し、そこを確固たる足場として大澤さんの融通無碍(ゆうずうむげ)な論理の運びに即応していく。「ノンアルコールビール」論、「アイロニカルな没入」論など、汎用性が高い議論が展開されていて、2つの突出した知性の応酬は実に読み応えがある。
本書は「天皇制とはこういうものだ、理解せよ」という、凡百の啓蒙書ではない。「最近しばしばメディアで取り上げられる天皇制について、私たちの考えを率直に披瀝してみる。さて、あなたならどう考えるか」と読者に熟考を促す、まことにフェアな書物である。現代を代表する知性が呼びかけてくれているのだから、ここはぜひとも、自分なりの考えを進めねばなるまい。まさに天皇は、日本人全体の象徴なのだから。
おおさわまさち/1958年、長野県生まれ。社会学者。著書に『〈世界史〉の哲学』シリーズ、『新世紀のコミュニズムへ』など多数。
きむらそうた/1980年、神奈川県生まれ。東京都立大学・同大学院教授で専攻は憲法学。著書に『憲法学者の思考法』など多数。
ほんごうかずと/1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。『日本史のツボ』『「失敗」の日本史』など、著書多数。