本妻の家に、「面会に来られたらどうですか?」
ある朝、糸川が突然、「どうして僕たちは結婚しないか話そうか」と赤塚に言いだした。いまさらどうでも良かったのだが、耳を傾けていると、「あのね。結婚するとね、離婚問題が発生するでしょ。だから結婚しないの」という。
「僕はアンさんと何回も別れようと思ったんだよ。でもね、もうこれっきりにしようと言って、橋の真ん中から両方に歩き出して、渡り終わったらまた振り向いて一緒になっちゃうんだよね」
くだらないのろけ話だったが、今思えば、結婚しないでずっと暮らしていることも全然おかしくないんだと、糸川は言いたかったのだろう。
――アホちゃうかな。でも、理屈を超えた男と女の関係というのはあんねんなあ。
赤塚はつくづくと思った。糸川は、「アンさんは、僕にないものをみんな持っている」とも言った。それが明らかになったのは、糸川が脳梗塞で倒れた後のことである。
糸川は地元の丸子中央総合病院で闘病したが、アンさんは2年近く病室に泊まり込んで介抱を続けた。いつも彼に話しかけ、絶え間なく体をさすり、床ずれや内出血が起きないように少しずつ動かしてやる。病状が悪くなると、彼女の方から本妻の家に、「面会に来られたらどうですか?」と連絡をする。すると、東京から駆け付ける。そんなことが続いたが、本妻が病院に着いても、糸川は病室に鍵をかけて入らせなかったという。大先生のけじめのようにも見えたが、それは家族にとっても、その場を外しているアンさんにとっても、情愛の修羅場であったろう。
いよいよ体が動かなくなったころに、アンさんは糸川の手を握りながら、赤塚に漏らした。
「あたしは今が一番幸せなの。ヒデちゃんが私だけのものになったのよ」
一方の赤塚は師を失う不安から、糸川の車椅子を押しているときに尋ねた。
「大先生、僕はこれからどうしていくのがいいでしょうか?」
細い声が返ってきた。
「自分で考えなさい」
そうだ、先生はもういなくなるのだ。
「大先生が逝ったよ」
糸川が力尽きたのは、1999年2月21日の未明である。86歳だった。窓が白みかけたころ、1人付き添ったアンさんに手を強く握られていた。
遺志に添って葬儀は行われず、自宅の古民家を清め、数十人のゆかりの人々で酒を飲んだ。赤塚は「大先生が逝ったよ」と知人から電話を受け、320キロの道を津市から車を飛ばした。
糸川にかわいがられた宇宙科学研究所課長の林紀幸も東京から駆け付けた。第1話で紹介したが、林の父親はテストパイロットで、糸川たちが設計した「隼」2型機の試験飛行中に殉職している。
古民家で誰もがぼんやりしていると、友人だった丸子中央総合病院理事長の丸山大司が、「うちの看護婦が世界一だと自慢したいけれど、私はアンさんのような献身的な介護をいままで見たことがありませんでした」と絞り出すように言った。