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「僕たちの先生でもあるんだ。遺影は渡せないよ」

「先生のように2年近くも寝たきりで、それでいて褥瘡(じょくそう)がないご遺体を、僕は医者になって初めて見ました」

 そして号泣した。それを合図に嗚咽の声が広がった。

 町営の火葬場では、遺骨や遺影をめぐって、赤塚らと、東京から引き取りにきた遺族の間で小さな諍いが起きた。

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 遺族が「遺影や遺骨はみんな持って帰ります。骨ひとつあげられない」と告げたのだった。息子たちに言わせれば、アンさんやその友人たちは(大事な父親を母から奪ってこんな目に遭わせた者たち)という思いがあるだろう。それぞれに立場と言い分があるのだ。

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 しかし、気の強い「ロケット班長」の林は、青筋立てて𠮟った。

「僕たちの先生でもあるんだ。遺影は渡せないよ」

 火葬が終わり、白い骨の糸川が台車で運ばれてきた。ゆかりの人々が台車を囲んで、骨壺に骨上げをすることになった。

 誰かが遺族の目を盗んで、糸川の骨片を長い竹の箸でパッと取り、手元のハンカチにくるんだ。

 丸子中央総合病院の看護師たちも急いでハンカチに包んだ。飛び上がるほど熱かった。赤塚も骨壺に入れる振りをして、手を伸ばしてポケットに入れた。気づいたらその手に火傷をしていた。

 赤塚はその骨片の1つを、糸川が愛したイスラエルの地に、もう1つを鹿児島県肝属郡肝付町(旧・内之浦町)に立つ糸川英夫像の礎石の下に埋めた。そこは、糸川が秋田の道川海岸に代わるロケット発射場として選んだところだ。今は内之浦宇宙空間観測所がある。そして、わずかな骨片の残りを赤塚の会社に設えた簡素な祭壇に祀った。

 看護師たちが持ち帰った骨片はアンさんに渡された。そのためにこっそりと取ってきたのだ。

「母は大先生と出会い、暮らして、共にいられたことが本当に幸せだったと思います」

 49日を迎えて、彼女は看護師たちとともに、糸川が好きだった静岡県伊東市の城ヶ崎海岸に出かけ、早朝の吊り橋の上から散骨した。

 遠く伊豆七島を一望して、アンさんが大きく手を振ると、博士の灰は青一色の空にパッと散った。一気に撒いた。

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 看護師の一人が「残さなかったの?」と尋ねると、彼女は放心したようにつぶやいた。

「いいの、いらないわよ」

 糸川が彼女に遺したものは、古民家だけだった。糸川の死後、離れていく人は多かったが、彼女はそこに住み、最後は糸川と同じ病室で15年後に亡くなっている。彼女の葬儀の後、息子が参列者にこんな挨拶をしたという。

「母は大先生と出会い、暮らして、共にいられたことが本当に幸せだったと思います。皆さん本当にありがとうございます」

 そんな風に言える息子も、言わせたアンさんも堂々として見事だな、と赤塚は思った。

 そんな愛の形もあるのだ。

 赤塚はアンさんの遺骨の一部も持ち帰って、毎日、祈りを捧げることにした。彼女は赤塚の、もう1人の恩師なのである。

 彼のところには、2人の遺骨が安置されている。だから、赤塚は2人の愛の行方を知る墓守ということになる。

後列のひと 無名人の戦後史

清武 英利

文藝春秋

2021年7月28日 発売