パナウェーブ研究所は1997年から全国行脚を続けており、2002年に私が遭遇したように、偶然彼らの姿を見かける人も少なからず存在していたようだ。しかし、今と違ってSNSが発達していなかった時代、おかしな集団を見かけたとしても、大きな話題になることはほとんどなかった。
だが2003年に岐阜県で発見された際には、警察が介入したことで報道陣が押し寄せ、たちまち大騒ぎになってしまった。仮にこのとき、いつものようにひっそりと移動し、山梨県の施設に入ることができていれば、その後も世間から注目を集めることなく過ごせていたのではないだろうか。その点で18年前の騒動は、パナウェーブ研究所にとっても不運な出来事だったといえるのかもしれない。
翌年、本拠地を訪れると……
私はそれからも定期的にパナウェーブ研究所の本拠地を訪れ、彼らの変化を追ってきた。2004年の夏には、ちょっと怖い目にも遭った。深夜に本拠地近くを通りがかったのでふと立ち寄ってみたのだが、近所の道路に車を停めたところ、施設内の動きが急に慌ただしくなったように感じられた。すると突然、サーチライトのようなもので照らされ、さらには懐中電灯の灯りが激しく揺れながらこちらに迫ってきた。
急いで車を発進させて難を逃れたと思ったのも束の間、白い四駆車が猛スピードで追いかけてきた。あの「ストーカー車追跡中」と書かれた車だ。それから数キロほど追跡されたが、なんとか撒くことに成功した。
その後、2005年にかけて本拠地全体は白い布で覆われ、施設の周囲には渦巻きのマークが貼られるようになった。白い布は徐々に拡大し、やがて施設周辺の立ち木にまで巻かれるようになっていった。
教祖の死が与えた影響
しかし、2006年に千乃裕子氏が72歳で亡くなると、白い布は次第に減っていった。2007年の時点では、施設の周囲は白い布で覆われていたものの、立ち木に巻かれていたものは撤去され、渦巻き模様も消えていた。
その後、大きな変化があったのは2009年のことだった。現地を訪れると、白い布はほぼ撤去され、パナウェーブ研究所の看板も下ろされていた。ここに至って、パナウェーブ研究所は自然消滅していたのだ。