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高齢者を青酸カリで次々に殺害した“筧千佐子”の意外な過去「子供2人とも私立大学に通わせた」「分家の嫁として虐げられ…」

『連続殺人犯』より#3

2021/08/16

source : 文春文庫

genre : 読書, 社会

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「あちこちに借金して、結局は土地を手放すことに…」

 65年4月から都市銀行の北九州支店で銀行事務の仕事に就いた千佐子は、69年に旅行先の鹿児島県・桜島で、当時は運送関係の仕事をしていた貝塚市の矢野正一さんと出会い、交際するようになる。そして、同年3月に勤め先の銀行を辞めた彼女は、10月に彼と結婚した。そのいきさつについて、千佐子から話を聞いたことのある知人は語る。

「当時、矢野さんの実家は兼業でみかん農家をやっていました。その関係で農協の旅行に参加し、桜島を訪れていたそうです。一方の千佐子は銀行の同僚と旅行中でした。その旅先で、矢野さんのグループの年配の男性たちが千佐子らに声をかけ、若いんだからということで、矢野さんが代表して彼女に住所を聞く役割を担ったというのが、交際のきっかけです。当時は双方の両親が結婚に反対したそうですが、千佐子によれば、『あの年頃だから、反対されればされるほど盛り上がった』ということで、結婚を押しきりました」

 貝塚市に嫁いだ千佐子は、彼の実家のみかん農家を手伝いながら、70年に長男を、71年には長女を出産した。順風満帆な結婚生活かと思われたが、決して平穏なものではなかったようだ。近隣住民は当時の状況について説明する。

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「あそこの家は近くに本家があるんやけどな、九州から来た嫁さん(千佐子)は気ぃが強うて、本家の悪口をまわりに遠慮せずに言いふらすんや。せやから本家との関係はようなかったで。それにな、あの嫁さんは金遣(かねづか)いが荒いいう話も聞いとる。ダンナが死んでからも1人でプリント工場の仕事を続けとったんやけどな、あちこちに借金して、結局は土地を手放すことになってしもたんや」

©iStock.com

 このコメントに出てきたように、矢野さんは結婚から18年後の87年に、衣類へのプリントを主体とした『矢野プリント』(仮名)という印刷会社を立ち上げ、千佐子も仕事を手助けしていたという。だが、もともと病気がちだった矢野さんは、94年9月に54歳で亡くなる。矢野さんの死亡前から千佐子は会社の運営資金だとして、双方の親族などから借金を重ねていたが、夫の死亡保険金として入った約2000万円をそれらの返済に充てている。その後、千佐子は会社を受け継いで続けていたが、01年に廃業。彼女は貝塚市の矢野家の周辺から姿を消した。先の近隣住民は続ける。

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