「蚊も人も俺にとっては変わりない」「私の裁判はね、司法の暴走ですよ。魔女裁判です」。そう語るのは、とある“連続殺人犯”である。

 “連続殺人犯”は、なぜ幾度も人を殺害したのか。数多の殺人事件を取材してきたノンフィクションライター・小野一光氏による『連続殺人犯』(文春文庫)から一部を抜粋し、“連続殺人犯”の足跡を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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CASE1筧千佐子

近畿連続青酸死事件

銀行員のプライドから投資へ

 千佐子のルーツを辿ると、福岡県北九州市に辿り着く。

 後の面会時の千佐子本人の述懐によれば、彼女は1946年11月、長崎県長崎市で未婚の母の子として生まれた。すぐに佐賀県出身の父親と山口県出身の母親が住む福岡県八幡市(現・北九州市)に養子に出され、長女として育てられた。地元の公立小・中学校に通っていた頃を知る星野君子さん(仮名)は、「山下」姓だった当時の千佐子を振り返る。

「家が近くだったから小学校の頃から、もう1人の女友達と一緒に遊びに行ってました。たしかお父さんは勤め人で、家にはお母さんとお兄さんがいたという記憶があります。山下さんの印象はとにかく頭のいい子というものです。ほんとにそれしか思い浮かばない。だから将来は、どこかでリーダーになって、活躍しているだろうなって思っていました」

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 千佐子と同じ中学校に進んだ星野さんは、彼女について強く印象に残っていることがあるという。

「山下さんは中学でも学業の成績はとにかく良かったんですけど、運動が苦手だったんですね。それであるとき彼女が先生に『私は運動はできないけど、とにかくできないなりに頑張った。だから体育の点を上げてください』って直訴(じきそ)したんです。それを聞いて、山下さんらしいなって思いました。昔から気が強いし、言うべきことは言うというタイプだったんです」

 学年でも上位の成績だった千佐子は、62年4月に進学校として知られる県立東筑高校に入学した。同校での、千佐子の同窓生を取材してまわったが、事件のことを知る誰もが、口裏を合わせたかのように「目立った存在じゃなかった」や「同じクラスだけど、私はよく知らない」との答えを返してきた。

「どちらかといえば穏やかで、記憶のなかでは笑顔が浮かぶタイプ」

 というのが、数少ない具体的な証言の一つだ。また高校卒業後に、彼女は大手都市銀行に就職するが、そのことについても、「本人(千佐子)は大学進学を希望したが、家族の反対で仕方なく就職した」との話がある一方で、「当時、(同校の)女子生徒は教職を希望したり、弁護士を目指すという人以外は、大学に行かずに就職を選択するのが普通だった」との意見もあったことを付け加えておく。