子供2人とも私立の大学に行かせていた
「工場自体はそんなに規模の大きいもんやないし、なんであないに借金があったんやという話になったことがある。子供らを2人とも私立の大学に行かせとったし、たしかにカネはかかったかもしれへんけど、それだけでは収まらん借金があったて聞いてるからね。カネを借りとった親戚からなんに遣ったんか訊かれても、頑として言わへんかったそうや」
前出の大阪府警担当記者は、千佐子が一連の事件を起こすきっかけについて、捜査員の見立てを解説する。
「捜査員は千佐子が最初の結婚をしていた時期の経験が、その後の犯行動機になったのではないかと見ています。実際、当該の時期について彼女は『とにかくカネには苦労した』と口にしており、『大金を稼いで見返したかった』とも供述しています。というのも、北九州市から嫁いだ千佐子には、近代産業発祥の地で育ったという自負があり、街育ちのエリート銀行員としてのプライドがあった。しかし、農地に囲まれた夫の実家からは、九州の田舎から出てきた分家の嫁として扱われ、虐(しいた)げられたことへの反逆精神による犯行ではないかというのです」
そうした“ルサンチマン(弱者による強者への憎悪)”ともいえる感情は、銀行員の経歴を持つ彼女を投資へと走らせた。
そのため千佐子は、最初の夫が亡くなる前の90年頃から、先物(さきもの)取引などの金融商品に手を出すようになったとされる。当初は数百万円の利益を上げたこともあったようだが、投機性の高い金融商品に手を出すようになった結果、多いときで数千万円の借金を背負うようになり、結果として夫の死後に引き継いだ『矢野プリント』は廃業に追い込まれた。
重複する交際と死亡
千佐子が結婚相談所に登録を始めたのは、夫の死から4年後の98年頃。そして02年には大阪市の(2)北山義人さんが死亡した。私が取材した近隣住民は周囲を憚りながら囁く。
「義人さんは奥さんがたしか50代半ばで亡くなり、娘さんは結婚しはって家を出ていたので、自宅に1人で暮らしていました。その女の人(千佐子)の出入りは見ていないんですけど、そういう人がいたことについては、前に娘さんから聞いています」
もともと農家だった北山家は、所有する土地を駐車場やビルにして、管理会社が運営しているという資産家だった。