映画『ドライブ・マイ・カー』を見て呆然とした。作品の中に無数の物語が存在し、その一つ一つが驚くほどの強度を持つ。どうすればこれほど力強い映画が生まれるのか。原作は村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収録された同名短編小説。妻を亡くした俳優の家福と運転手のみさきが車内で交わす会話劇をシンプルに描いた小説だ。映画ではこの短編を軸に、西島秀俊、三浦透子、岡田将生、霧島れいから豪華な出演陣が壮大なドラマを展開させる。

 監督は、近年国際映画祭で数々の映画賞を受賞、また『寝ても覚めても』(18)に続いてカンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品された本作で日本映画初の脚本賞(大江崇允との共同脚本)を受賞(他独立賞3賞を含む)し、世界的に大きな注目を集める濱口竜介。カンヌ参加前の濱口監督に、この驚くべき傑作の演出方法について、そしてカメラによって俳優の演技を撮る難しさについて、たっぷりとお話をうかがった。(全2回の2回め/前編を読む)

©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

映画の原理原則とは、カメラを一番よく見えるところに置くこと

――やはり映画のカメラが映す演技は、そこで実際に起きている生の演技とはまた違うものなんですよね。

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濱口 それはそうですね。実際にその場で真剣に演技をしている役者を前にすると、見ているこちらにも自然とある種の昂りが生まれてくるものです。それこそ「今、何かすごいことが起こったぞ」という気分になる。一方で、実際に撮ったものを見て「あれ、ちょっと思ったのと違うな」となるのもよくあること。カメラが見ているものと自分の目で見ているものをどれだけ近づけられるかが、現場での演技の判断基準としては重要だと思います。

――素人目には、リアルに演技を捉えるには、カメラを動かさずその場で起きていることをそのまま撮ればいいのかな、などと思ってしまいますが、カメラをどう動かすかが一番重要なんでしょうか。

濱口 原理原則は、古典映画に倣って、カメラを一番ものごとがよく見えるところに置くことです。一番よく見えるところにカメラを置き、かつ一番よく見えるところに置き続ける。それさえちゃんとできれば、あとはもう実際にカメラの前で起こっていることを調整していけばいい。映画の現場では、基本的にそれをひたすら繰り返しているんだと思います。自分もできるだけ、カメラに近いところから見る。一番ものごとがよく見えるところである以上、悪い面も隠しようなく映ります。だから、よく見えるところから被写体が十分に魅力的に見えるところまで持っていかなくてはならない。それができたら、それを積み重ねていく。

 ただそうはいっても、じゃあ向かい合っている二人の視線をどう撮るのか、という問題は残る。特に二人が二人とも魅力的な場合、それを撮るベストなポジションとはどこなのか。どちらを見るべきなのか、編集段階まで決められないとも感じます。そういうときは申し訳ないけど、演じ直してもらい、それぞれにカメラを向けて何度も撮ることになります。

濱口竜介監督 ©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 二人の役者が演技するなかで、ある相互反応みたいなものが起きたとします。その相互反応は外側から捉えればある程度は映る。ただ映画というのは、その捉えたものを常に再構成しないといけない。そのために、切り返し場面を撮ったり引きで撮ってみたりと色々な素材を用意するわけですが、じゃあいわゆる「編集素材」が十分にあればいいかというとこれがまたそうでもない。やはり一個一個の断片のなかで相互作用による「何か」が確かに記録されていなければ、編集時にどれほどがんばろうとその相互作用としての「何か」は再び立ち現れてはこない。切り取り方や編集で映画はどうとでも作れる、ということはありえない。やはりまずは現場で「何か」を起こさないといけない。それは映画を作る上で常に感じていることです。