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「ひょうたん型の池がある、庭付きの立派な家でした。一家には中学生ぐらいの兄弟がいて、小学校入学前だった私は、兄貴分として慕っていました。現在の東京証券会館がある場所も、当時はまだ焼け野原で、チャンバラごっこなどをして遊んだ記憶があります」

 大雪が降った日、その原っぱで、他地区の日本人と雪合戦になった。大勢の日本人チームに対して、朝鮮人兄弟と今野さんの3人だけで戦う。相手が石を入れて投げた雪が今野さんの眉に当たり、流血の事態となった。今も傷が残っている。

「朝鮮人の兄弟が、『やめた。負けた』と大声で勝負を終わらせてくれたのを覚えています。2人ともいい男だったのですが、やがて一家は隣を引き払いました。その後の消息は知りません」

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兜町の隣で目にした“バブル崩壊”

 高度成長期、今野さんの父は自宅をビル化した。66年には原っぱに東京証券会館が建ち、戦後復興と都市化がセットで進んだ。

 茅場町1丁目は、証券街の「兜(かぶと)町」に隣接している。

「うちの果物店では証券マンが進物用をよく買ってくれました。お客さんに持っていくと、翌日の注文が違うというんですね。株が上がったとなると大騒ぎで、そば屋が大量の出前を証券会社に運ぶなどしていました」

ビルの家主が住んでいるのだろうか、屋上に木がはえている(日本橋茅場町1丁目) ©葉上太郎

 だが、バブル経済が崩壊。地区内にあった三洋証券が会社更生法の適用を申請した。証券会社としては戦後初めての倒産だった。

「地元でも家族崩壊の話がたくさんありました。同じ茅場町でも1丁目ではないのですが、有名な高級天ぷら店が株に資金をつぎ込んでいました。バブルが崩壊したとたん、あっという間に店までダメになってしまいました」

「建ったのがマンションか、オフィスビルかの違い」

 その後、証券業界の景気は回復するが、電子化されたため、まちに活気がもたらされることはなかった。現金のやり取りがなくなり、会社も兜町に置く必要がなくなったからである。

 果物店は息子の代になったが、「さぁ、いつまで続くか」と今野さんは寂しげだ。

 ただ、茅場町1丁目にビルがなくなったわけではない。むしろ「東京駅周辺から始まった大規模開発の波がようやく茅場町1丁目に及び始めています」と今野さんは話す。

 それなのに人口が減るのは、「建ったのがマンションか、オフィスビルかの違いです」と今野さんは言う。証券街の隣接地であったのが地区の運命を分けたのだろう。